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Criterion盤DVD『恐るべき子供たち』のブックレットに掲載された『ニコール・ステファーヌの思い出』と題された談話の続きです。
私は、詩人(訳注:もちろんコクトーのこと)が撮影所に顔を出すことが特に好きだった。
彼は差し入れを持ってきては皆を狂喜させ、彼の前では上手く演じられるエドゥアール・デルミットを勇気付けていたのだ。
彼は撮影所をまるで猫のように行き来し、スタッフを魅了し、私たちを夕食に誘い、深夜、密かに帰ったものだ。
私は、病気になったジャン・ピエールの代役を詩人が瞬時に務めた日のことを覚えている。
それは我々が海辺のシークエンスを撮影していた時だった。
私たちはまるでバカンスの子供たちのようだったし、彼がその代役を喜んでいたのがよく分かった。
彼は私に話したものだ:
「私の可愛い人よ、君はこのように演じるべきではないのかな」
私は“彼の可愛い人”であることに感激した。
ある日の昼食時、印象的な眼を持った控えめな感じの男性が部屋に入ってきた。
彼はウットリするほど冷たく青い眼をしていた。
彼はジャン・コクトーの真向かいに座り、それから熱のこもった論議が始まった。
彼は、サラ・ベルナールと19世紀のコメディ・フランセーズについて話をした。
私の耳にはいまだに彼の騒々しい笑い声が、眼(まなこ)には彼がコクトーの真向かいに座っている光景が残っている。
その人物はジャン・ジュネであった。
寝台車のシーンで、ギリシャ人風の横顔を造るため、私は鼻の上に洗濯挟みを当てることになっていたのだが、あまりの酷い痛みに耐え切れず、思わず“カット!”と叫んでしまった。
それに対しジャン・ピエールは激怒し、私が彼の権限を奪ったことを決して許さなかった。
すべてのスタッフ、技術者たちは、彼の私に対する激烈さに呆然としていた。
けれども次の2日間、私の鼻がひどく傷付いてしまったため、私は撮影をすることができなかった。
『恐るべき子供たち』以後、ジャック・ベルナールと私だけがいまだ近しい関係にある。
エドゥアール・デルミットは、亡くなる数日前、私に次のように言った。
「あの映画で医者が私を診察しながら“33、33”と私に言わせたシーンのことを覚えているかい?幸福だったあの頃が懐かしいよ。」
批評家たちは映画に対してさして好意的ではなかったし、また、彼らの任務が再びジャン・コクトーを痛めつけることであったにせよ、確かに私たちは幸福であった。
映画に対する誤解によって傷ついたコクトーは、アンドレ・フレニョーによるインタビューの中で次のように語っている:
「批評家に酷評されたこの映画は、作品に見合った十分な評価が与えられていません。いまや、この映画の見地からの理解なしに、また、ニコール・ステファーヌとエドゥアール・デルミットの主役のイメージなくして、『恐るべき子供たち』の本を再読することは私にとって不可能なのです。何度も言いますが、私はこの映画に惚れ込んでいます。そして、この映画はいつの日か必ず名作と呼ばれることでしょう。」
コクトーの言葉は全くもって予言的だった。
公開から25年後に、フランソワ・トリュフォーが「ジャン・コクトーの最高の小説が、ジャン=ピエール・メルヴィルの最高の映画になった。」と書いたように、私もコクトーのその言葉を今日さらに強く確信するようになっているのだ。
この項終わり。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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