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Criterion盤DVD『仁義』の特典映像に収録された、助監督ベルナール・ストラのインタビューの翻訳の続きです。
『メルヴィル・システム』
メルヴィルにはあるシステムがありました。
それは、とても奇妙なことですが - 彼は何も言う必要がなくとも、俳優がメルヴィル的俳優に、セットがメルヴィル的セットになったのです。
私はこれについてどう説明すべきか分かりません。
彼には独自の世界を再創造できる非常に強いスタイルがあり、周囲の物事が、メルヴィル的見地に従って、再構築されたのです。
少々哲学的、あるいは抽象的で、妙なことを言うように思われるでしょうが、本当にそうであったのです。
彼は監督するにあたって、あらゆる詳細を練り上げていたわけではありません。
例えば、私は見習いとして、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーと仕事をしましたが、彼は『愛の地獄』を完成することができませんでした。
シャブロルが、後にそれを引き継いで撮影しましたが(訳注:94年に完成)、そこには、クルーゾーによってすべてが計画、立面図、スケッチによって、取り決められ、準備、作成されていたのでした。
しかし、メルヴィルの場合、そのようなことはありませんでした。
が、彼には撮るべきシーンのアイデアがありました。
彼はそのアイデアを説明し、我々はそのための準備をしましたが、彼はひと目見て、即座にすべてを変えてしまう、素晴らしい直感を持っていました。
疑いなく、私が出会った映画監督の中でも最も偉大な監督です。
彼は俳優の動く空間の組織化、いわば、その空間の使い方に真の直感力があったのです。
それは実に見事で、彼は自分がしていることを完全に把握していました。
正直なところ、私には、どちらかと言うと陳腐で、さして良くないと思えた脚本が、彼によって、素晴らしいシーンへと変わってゆく手法に最も感心させられました。
私にとって、『仁義』は監督の完全な演出力によって支えられた、真の映画です。
『仁義』は、ストーリーそのもの以外にもしっかり観るならば、カメラ・アングル、照明、セット、俳優の動きなど、ひたすら監督の演出力によってのみ成り立っている映画なのです。
ただストーリーを追うだけなら、私も脚本を読んだ時に少し感じたように、「ここからどんな映画ができるでしょうか?」
けれども私は、脚本の単純な、また、ありきたりとも思える部分が、メルヴィル的宇宙に属する何か特別なものへと見事なまでに変化してゆく手腕に、毎日驚かされました。
この項続く。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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