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前回からの続きです。

シューベルト『ピアノ・ソナタ第21番』ヴァレリー・
アファナシエフ(ピアノ)(85年)

なかなかシューベルトから抜け出せない。(笑)
しかし、21番のソナタは絶対に外すわけにはいかないのである。

これも暗い思い出がつまった曲だ(笑)。
今ではシューベルトのピアノ・ソナタもかなりポピュラーになったが、昔は出ているCDもさほど多くなかった。
こと21番ソナタに関しては、ホロヴィッツ(53年盤)、ルービンシュタイン、リヒテル、ポリーニ、ルドルフ・ゼルキン(スタジオとライヴの二種)あたりが評価が高かっただろうか。(内田光子やルプー、ペライア等はまだ出ていなかった)

中でもリヒテル盤は評価が高かったが、私はリヒテルのシューベルトでは13、14、15番のソナタは他に並ぶ者のいない鉄壁の名演だと信じているが、肝心の21番のソナタはどうもピンとこなかった。
ライヴ盤も探して聴いてみたが、スタジオ盤と解釈がまるっきり同じでダメだった。
むしろ、ルドルフ・ゼルキンのライヴ盤(77年)の方が好みだった。(特に第二楽章が素晴らしい)

そんな中、発売されたのがギドン・クレーメル主宰のロッケンハウス音楽祭のライヴ盤ヴァレリー・アファナシエフが弾いたCDだった。
これが世のシューベルト・ファンにどれほどの衝撃で迎えられたか・・・このCDを1分聴けばわかるだろう。
ただならぬ雰囲気、異常に遅いテンポの中、一音一音にこめた思索・・・。
異常な曲を異常に演奏すればこうなるという見本のような演奏だった。

そして、私は、この曲の本質、というか、シューベルトという作曲家の本質はこの曲の第4楽章なのではないか?とずっと感じていた。
そして、そのことを演奏で実践してくれるピアニストはほとんどいなかった。
ゼルキンもいい線まで行っていたが、不満が残った。

だいたいこのソナタの第1楽章、第2楽章を感動的に演奏するピアニストは少なくない。
音楽として比較的分かりやすいし、事実、音楽自体感動的に演奏できるようにできている。
一方で、第3楽章、第4楽章はまるで敗戦処理のように惰性で流されてしまうこともままある。
しかし、アファナシエフの演奏は決してそんなことはなかった。
それどころか、私が思い描いていたこの曲の演奏のイメージそのままだったのである!
”この人はなんて分かってるんだ!”と私は感激した。
我が意を得たりとはこのことだ。

他の楽章はアファナシエフよりも気に入っている演奏はあるかもしれないし、これからも現れるだろうが、第4楽章だけはこのアファナシエフの演奏が絶対に規範になるはずだと信じている。(発売からもう30年近く経っているからすでにそうなっているかもしれないが、このところの演奏は聴いていないので分からない)

昨今、アファナシエフのCDは次々と発売されている。
しかも、日本でのライヴ録音がほとんどのようだ。
おそらく日本には熱狂的なファンがいるのだろう。
私はアファナシエフが後にデンオンの所属になって何枚かシューベルトのCDを出した時に聴いたが、ロッケンハウスでのライヴほどの衝撃はなかった。
一度サントリーホールで生にも触れたが(2003年、ベートーヴェンの最後の3つのソナタ。CDにもなっている)、期待が大きすぎたのか、さほど感動できなかった。

実際問題として、現在アファナシエフの演奏を聴く勇気は生にせよCDにせよ私にはない。
もし今後聴く機会があるとしたら、何も考えずに気安くコンサートに出かける気分になった時ぐらいか、それとも・・・。



●シューベルト『冬の旅』フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ムーア(ピアノ)(71年)

『冬の旅』・・・間違いなく古今東西の音楽作品の中で最も優れた作品の一つだろう。
しかし、世間一般でそのように言われることはまずない。
ある意味、この曲集ほど過小評価されている作品もないのではないか。

この曲については、以前フィッシャー=ディースカウが亡くなった時に少しだけ書いたことがある。(リンク
今回も、どの演奏を選ぶかはちょっと迷った。
何種類もの録音が残っているフィッシャー=ディースカウではやはり71年のドイツ・グラモフォン盤が一番だと思うが、ハンス・ホッターの69年の東京でのライヴ盤もかなり好きなのである。
ホッターはもっと若い頃に(54年)EMIに吹き込んだものも名演として名高いが、録音が良くないせいもあって音楽に充分に浸りきれないきらいがある。
それに比べて、声は衰えていても、ライヴの緊張感と息遣いの生々しさ、録音の良さという意味で東京ライヴの方がずっと好きだ。

あと、ペーター・シュライアーがあのリヒテルの伴奏で歌ったCDも忘れられない。
この曲集の狂気性を露わにした演奏で、シュライアーもかなり大胆な表現をしているので好みが分かれそうである。(私も好きかどうかと言われたら苦手と答えるかもしれない)
同時に、この曲においていかにピアノが大きな存在かを分からせてくれたという意味ではさすがにリヒテルである。

しかし、結局フィッシャー=ディースカウの71年のドイツ・グラモフォン盤を選んでおく。
他の演奏にはこの演奏ほどの思い入れはないからである。


続きます。
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前回からの続きです。

●プッチーニ『ラ・ボエーム』トスカニーニ指揮NBC交響楽団、アルバネーゼ(ソプラノ)、ピアーズ(テノール)(46年)

トスカニーニと『ボエーム』、いや、トスカニーニとプッチーニ自体、水と油の取り合わせのように感じられるかもしれないが、実はトスカニーニは『ボエーム』の初演の指揮者であった。
だからなのか、『ボエーム』という作品に対する愛情、思い入れは尋常ではなかったようだ。
そのことはこの演奏を聴けばよくわかるし、この指揮者に対するイメージも変わるのではないだろうか。

トスカニーニのオペラ録音というと、どうしても晩年のヴェルディのオペラ録音のイメージが強いが、ハッキリ言ってほとんどがつまらない。(唯一『オテロ』は好きだが)
さすがのトスカニーニも晩年は衰えを隠せなかったようだ。
特に1950年前後からは硬い響き、融通の利かないリズムになり、直情径行的な、いわゆる一般的なトスカニーニのイメージに近い演奏スタイルになってしまった。
ヴェルディのオペラの録音がその時期に行われたのは残念である。

それに比べ、この46年に録音された『ボエーム』は、溌溂としたリズム、呼吸感、しなやかなカンタービレなど、これぞトスカニーニのイタリア・オペラという名録音である。(実際、録音もいい)
アルバネーゼジャン・ピアーズというトスカニーニ好みのキャストも、この演奏には収まりが良く、不満が少ない。




●シューベルト『交響曲第8番 未完成』ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(60年)

昔のクラシックLPが『運命』『未完成』というカップリングでよく売られていたように、『未完成』という作品は、いわゆるポピュラー名曲的な立ち位置で、中学や高校の音楽の時間に聞かされることも多いだろう。
しかし、ちゃんと聴いてみると、こんな恐ろしい音楽は滅多にないことに気づかされる。
こんな曲を子供に聴かせていいのだろうか、と本気で思ってしまう。
この曲に描かれている世界は、一言で言えば、人間の絶望的なまでの孤独と諦念である。
およそ、未来のある若者に聴かせるべき類の音楽とは思われない。
ただ、そんじょそこらの演奏ではそのあたりの本質を感じ取ることが難しい。

ここに取り上げたCDは、ワルターが60年にウィーン・フィルを最後に振った時のライヴ盤だが、私もこの演奏を聴いて初めてこの曲の真価を知った。(私は昔出ていたAS DISCというレーベルのCDで聴いている)
ワルターも心臓の病気をした後で死を間近にした時期だが(62年に死去)、そういった中でこのような名演奏を残すところなど、さすがに大指揮者だと思う。




●シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』ギドン・クレーメル、ダニエル・フィリップス、キム・カシュカシアン、ヨーヨー・マ(85年)

今回の企画で取り上げたCDはシューベルトが多いが、それも仕方ない。
大学生の頃の”シューベルト体験”があまりにも強烈だったからだ。

恥ずかしい話だが、その頃私は手痛い失恋をした。
そんな時、魔の手(?)を伸ばしてきたのがシューベルトだったのだ。

『未完成』、『弦楽四重奏曲第15番』、『ピアノ・ソナタ』(『第13番』~『第21番』)、『即興曲集』、『楽興の時』、『弦楽五重奏曲』、『八重奏曲』、『ピアノ三重奏曲第2番』、『幻想曲』(ヴァイオリンとピアノ、四手のピアノの二種)、『冬の旅』、『白鳥の歌』・・・そこにはとんでもなく暗く深い音楽の淵が存在していた。
しかも、それは恐ろしいほど美しい。
私はあっけなくシューベルトの泥沼にはまってしまったのである・・・。

今思えば、その音楽は失恋の痛手を和らげるどころか、一層重く苦しいものにしたのだ。
そこから這い上がって生還するまでにはかなりの時間がかかった。(時にブルックナーが心を慰めてくれた)
シューベルトのそれらの作品を今聴くのは勇気がいる。
一種のトラウマのようになっており、あの頃の暗かった自分に再び会うような感覚をおぼえるからだ。

学生の頃に音楽鑑賞サークルに所属していたことは以前書いたが、3年の頃だったか、他大学の同種サークルの方々を自分の大学に招き、学生会館を借りてレコードコンサートを催したことがある。
私の大学から、私も含め数人が自分の好きなCDを持ち寄り、レジュメも作って音楽の魅力を解説しながらCDをかけるわけだが、よりによって私はこのCD(シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』)を選んだ。
私が主催サークルの幹事長だったこともありトリを任されたのであるが、私の順番が回ってきた頃にはすでに数時間が経過しており、その頃にはマーラーやらバルトークやらショスタコーヴィチやらの洪水を浴びた参加者たちは皆疲れ切っていた(笑)。

終楽章までかけるのはあまりにも参加者の皆さんがお気の毒だったので、第1楽章と第2楽章のみかけたのだが、第2楽章が終わった時にその場に居た皆さんの”やっと終わったー”というようなため息が会場に漏れたことを昨日のことのように思い出す。(第2楽章までかけても30分は優に超えたのである)
お口直しにクリフォード・カーゾンの弾いたシューベルト『即興曲』作品142-2とエリーザベト・シューマンの歌うシューベルトの歌曲を2,3曲掛けたが、お口直しになったのかどうか。
今となっては、主催者代表として、来ていただいた皆様には申し訳ないことをしたと思う。

その後の懇親会と称す飲み会で(実はこっちの方がメイン)、何人かの他大学生に”今日のシューベルト良かったっスよ!”というような声を掛けられたのは救いではあった。
しかし、シューベルトが良かったというよりも、爆音のマーラーやバルトークよりはマシだったという意味なのだろうな、と解釈した。

ただ、私がシューベルトのCDをかけている間、私の方を熱い(?)視線でじっと眺めている他大学の女性が一人いたが、あれは何だったのだろうか?
飲み会の席で確認しようとしたが、いろいろと邪魔が入った(笑)。
青春の苦い思い出の一つである・・・。



続きます。
前回からの続きです。

●モーツァルト『ピアノ協奏曲全集』シフ(ピアノ)、ヴェーグ指揮モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ(87~93年)

若い頃はモーツァルトはあまり好きではなかった。
シンプル過ぎてどうにも心に引っかかってこなかったのである。
ところが、不思議なことに最近はそのシンプルなところが好きになってきた。
歳を取ったということなのだろう・・・。

実際のところ、モーツァルトくらい判断の難しい作曲家もいない。
好きな作品も多いが、正直なところ、つまらなく感じる作品も結構ある。
ピアノ協奏曲』はモーツァルトでは昔からよく聴くジャンルだが、このCDはヴェーグ指揮のオーケストラの柔らかい響きが例えようもないくらい素晴らしい。
それでいて躍動感もあり、こう言ってはなんだが、オーケストラを聴いているだけで充分満足である。
これに加え、シフのような作為のないピアニストはモーツァルトにピッタリである。
いや、皮肉ではなく本当に。



プッチーニ『トスカ』ミトロプーロス指揮メトロポリタン歌劇場、テバルディ(ソプラノ)、タッカー(テノール)、ウォーレン(バリトン)(56年)

さて、ようやくオペラの登場。
最近は聴くのはもっぱらイタリア・オペラであるから、オペラに関してはいずれ何か書きたいと思っていたが、いつ書けるかどうか分からないので、この企画に便乗して書くことにする。
ただ、イタリア・オペラといっても、ドニゼッティロッシーニベルリーニといったところはほとんど聴かない。(ベルリーニに興味はあるが)
なかんづくヴェルディプッチーニになってしまう。

思えば、大学の音楽鑑賞サークルにいた頃はそれほどイタリア・オペラを熱心に聴いていたというわけではない。
当時、好きな作曲家はシューベルトワーグナーブルックナーと、ドイツ・ロマン派べったりであり、周りにもそれほどイタリア・オペラ好きは多くなかった。

ただし、いくつか印象に残る出来事はあった。

そのサークルは、私の入学前にオペラ演出家の故三谷礼二氏(1934-1991)関連のコンサートを企画、主催したりして三谷氏と親交があった。
私自身は三谷氏とは一度コンサート会場で大勢の中の一人として挨拶した程度で、最初はどんな人かも知らなかったが、氏と交わりのあったサークルの先輩方には氏の趣向、言説は大変強い影響を及ぼしたようである。(現在音楽評論家としてご活躍のY氏もその一人のようだ)

三谷氏はイタリアのソプラノ歌手レナータ・スコットの大のご贔屓だったので、結果、その影響を受けた諸先輩のお勧めで私もスコットを聴くことになった。(三谷氏は一方でお気に召さない歌手、演奏家はケチョンケチョンに貶していた。興味ある方は氏の著書を読まれたし)

中でも三谷氏ご推薦のスコットの64年ボリショイでのリサイタル盤を諸先輩はほとんど”神盤”として崇め奉っていたので、当然私もそれを聴いた。
しかし、確かに高音の声の輝きと歌唱テクニックは物凄いものの、声の響きがどうも私好みでなく、好きになるとまではいかなかった。
今聴くと(YouTubeで聴ける)、高音やテクニック以外にも歌の呼吸、リズム感など確かに凄いと思うが、当時はそこまで分からなかったのだ。

また、私が『蝶々夫人』のCDは何を買ったら良いかとある先輩に尋ねたら、「それはスコットが蝶々さんを歌っているバルビローリ盤ですよ」ということになり、先輩の勧めに従ってそれを買い求めた。
しかし、それもどうもピンとこなかった。(『蝶々夫人』というオペラ自体、今もって少々苦手である)

80年代の後半、世はスコットのライバルたるミレッラ・フレーニの全盛期?で、オペラのCDは、出るCD、出るCD、皆フレーニ(とドミンゴ)が主役を歌っているような状況だった。
フレーニが蝶々さんを歌ったカラヤン盤はすでに高い評価を得ていたから、カラヤン盤にすれば良かったかなと心の底では思っていたが、サークル内ではカラヤンとかフレーニを聴いているとは口が裂けても(?)言えない状況だった。
実際、私もそこまでフレーニが好きだったわけではないので実害はなかったが・・・。

さて、ようやく本題に入る(笑)。
今回紹介するCD『トスカ』のタイトルロールを歌っているレナータ・テバルディ(1922~2004)は20年以上前から我が最愛の歌手

好きになったきっかけは、93年頃に『ボエーム』のライヴ盤(65年メト、クレヴァ指揮、コレルリ共演)を聴いてからなので、大学を卒業した後である。
それまでも『ボエーム』(セラフィン指揮)、『オテロ』、『アイーダ』(共にカラヤン指揮)といったスタジオ録音の”名盤”で彼女の声を聴いていたが、特別好きだったわけではない。というか、あまり意識して聴いていなかった。

一方で、メトの『ボエーム』は、客席で隠し録りしたような海賊盤まがいの音質だったが、テバルディの声がそれまで聴いていたスタジオ録音の声とはどこか違って聴こえた(良い意味で)。
今聴けば、絶頂期はとっくに過ぎているだけに、彼女としては本調子の声ではないのだが、ライヴならではの芝居っ気と声の響きの良さのためだろうか、突然彼女の声の魅力に目覚めてしまったのである。
そうこうしているうち、ここに取り上げた『トスカ』のライヴ盤を聴いて、本格的に彼女のファンになったのだ。

テバルディは戦後イタリアを代表するプリマだけに、トスカニーニに天使の声と評された(諸説あり)類稀な美声と、どんな状況でも損なわれることのない気品、そして、テクストに忠実なきめ細やかな表現力等、優れた要素は多々あるが、やはり、その歌声の得も言われぬ生理的快感が理屈を超えた魅力である。

声質としては真正のリリコ・スピントであり、あのデル・モナコやコレルリ、ビョルリンク、ディ・ステファノ、バスティアニーニ、ゴッビ、シエピら、同時代の強力な男性歌手たちに負けないくらい強靭でスケールの大きな声の持ち主だった。
それでいて、その声にはあくまでも女性らしいしなやかさ、暖かさが欠けていなかった。

残された写真や舞台のDVD、インタビュー映像を見る限り、意外にも(?)プリマドンナ然としていない穏やかで愛想の良い人だったようで(数多くの舞台と録音を共演したデル・モナコもそのようなことを言っていたと記憶)、その人間性も魅力の一つである。

彼女は正規レコーディング(デッカ)にも恵まれたが、スタジオ盤とは異なる、ストレートな声の魅力とスリリングな表現力が味わえるライヴ盤はどれもファンには聴き逃せないものばかり。
私も、未だ道半ばだが、ライヴ盤を見つけてはせっせと買い揃えている。
そんな歌手は彼女ぐらいである。

テバルディが歌った『トスカ』は2種のスタジオ録音の他に数種類のライヴ録音が世に出ているが、どれか一つと問われたら、迷うことなくこのミトロプーロス指揮メトロポリタン歌劇場のライヴ盤を選ぶ。(昔からいろいろなレーベルから発売されているようだが、私は伊Cetra盤で聴いている。録音状態は良好)

とにかく、ここでのテバルディは何があったのだろうと思うくらい凄い。
声は絶好調で朗々と響き渡り、ところどころで聞かれる激しい表現には驚くばかり。
スタジオ録音のテバルディしか知らない人には、これがあのテバルディとは思えないのではないか。
これを聴いてしまうと、同じ『トスカ』でも有名なスタジオ盤(59)や日本公演のライヴ(61)がテバルディとしては平凡な出来に聞こえてしまうのは致し方ない。

ギリシャ出身の指揮者ミトロプーロスは意外とイタリア・オペラとの相性が良く、いくつかの名演奏がCDとなって残っているが、特にこの『トスカ』は持ち前のドラマティックな鋭さが、プッチーニのエグい音楽にはまっており素晴らしい。
ドラマティックな迫力という面ではガヴァッツェーニもなかなかだが(58年、59年のテバルディとの『トスカ』がある)、リズムが重いのが難点。

ここに取り上げた56年メトの『トスカ』はタッカーウォーレンという共演陣も魅力的で、特にタッカーが素晴らしい。(ウォーレンはもう少しアクの強い役作りでも良いだろう)
とかく日本では往年のメトの名歌手たちを評価しない傾向がある(あった)が、実にもったいない話である。
前回からの続きです。

●ブラームス『ドイツ・レクイエム』クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、フィッシャー=ディースカウ(br)、シュヴァルツコップ(s)(61年)

いろいろなジャンルのベスト10とか20とかいっても、私にとってクラシック音楽の範疇を超えて永遠のベストワンはこれである。
それはもう30年変わらない。
ブラームスは作曲家としては特に好きではないが、この曲だけは特別。



ブルックナー『交響曲第8番』クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(61年)

大学生の頃、ブルックナーに熱中した。
ただ、時期が80年代後半だったので、朝比奈やチェリビダッケ、ヴァントらの90年代ブルックナー・ブームが本格的に訪れる前だったのは良かったのか悪かったのか・・・。
90年にチェリビダッケがミュンヘン・フィルと来日した際、私は8番をオーチャードホールで聴いた。
本当に楽しみにしていた公演だったのだが、あまりにテンポの遅いアダージョの途中で私はウトウト眠ってしまった。
今思えば、それがブルックナーから離れるきっかけの一つだったような気がしてならない。

それはともかく、ブルックナーでどれか一曲と言ったらやはり8番だが、クナのミュンヘン・フィル盤とベルリン・フィル盤、セル・クリーヴランド盤、マタチッチ・N響盤、ジュリーニ・ウィーン・フィル盤と名盤が揃っているのでどれを選ぶか迷う。

この中で演奏として最も完成度の高いのはおそらくセル盤で、第一楽章から第三楽章まではブルックナーのツボを押さえた完璧な出来栄えだが、なぜか第四楽章だけテンションがガクンと下がるのが本当に残念。
そんなわけで、ここでは一番思い出深いクナのミュンヘン・フィル盤を挙げることにする。
初めて8番を聴いたのがこれのLPだったのだから古い付き合いだ。

ブルックナーの他に好きなCDとして、2番(朝比奈)、5番(シューリヒト、ケンペ)、7番(ベーム)、9番(シューリヒト、クレンペラー)を挙げておく。
ただし、最近はブルックナーを聴く機会は全くと言っていいくらいない。
当時、あまりに聴き過ぎたのだと思う・・・。



●ドビュッシー『弦楽四重奏曲』カペー弦楽四重奏団(28年)

ドビュッシーは大好きな作曲家だが、この曲だけを挙げるのはちょっと変わっているかもしれない。
もちろん、『牧神』、『前奏曲第一巻』、『ヴァイオリン・ソナタ』、『ペレアス』、『歌曲』と好きな曲は他にもあるが、ダントツに好きなのはこの『弦楽四重奏曲』なのである。
本当にいろいろな演奏を聴いたが、やはりカペーの壁は厚い。
第1楽章のコーダの部分など神業だし、第3楽章など、もはや音楽を超えた別の何物かであるかのように響く。



●フォーレ『ピアノ四重奏曲第一番、第二番・ピアノ五重奏曲第一番、第二番』ユボー(ピアノ)、ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団(69,70年)

フォーレも大好きな作曲家。
有名な『レクイエム』も好きだが、本領が聴けるのは室内楽作品歌曲で、渋い作品ばかりだが、いずれも素晴らしい内容。
中でも、この4曲はいずれもどれがどうと言えないくらいの高みに達しており、順位は付けられない。
これも多くの演奏を聴いたが、最初に聴いたユボー盤を超えるものは結局見つけられなかった。
演奏技術的にこの演奏を超えるものはたくさんあるが、この雰囲気、味わいはどこにも出せない。


続きます。
自己紹介の欄に、趣味としてジャズを挙げているが、実は最近聴く機会がほとんどない。
むしろ、最近はクラシック音楽、ことにイタリア・オペラを聴く機会が圧倒的に多い。
これまでjazzアルバムベスト20私の好きなロックアルバムベスト11枚を選んできたので、ここで一つ私の好きなクラシックベスト20を選んでみようと思う。

ただし、私がクラシック音楽をちゃんと聴いていた時期は主に80年代の半ばから90年代の前半にかけて、時期としては高校から大学、そして就職したあたりまでだから、選ばれるものはほとんどがその時期に聴いていたものになりそうだ。
(基本的に作曲家のアルファベット順で順位はありません)



●バッハ『イギリス組曲全曲』ヴェデルニコフ(ピアノ)
●ベートーヴェン『交響曲全集』トスカニーニ指揮NBC交響楽団
●ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第14番』カペー弦楽四重奏団
●ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』シューリヒト指揮シュトゥットガルト放送交響楽団
●ブラームス『ドイツ・レクイエム』クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

●ブルックナー『交響曲第8番』クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィル
●ドビュッシー『弦楽四重奏曲』カペー弦楽四重奏団
●フォーレ『ピアノ四重奏曲・ピアノ五重奏曲』ユボー(ピアノ)、ヴィアノヴァ弦楽四重奏団
●モーツァルト『ピアノ協奏曲全曲』シフ(ピアノ)、ヴェーグ指揮モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ
●プッチーニ『トスカ』ミトロプーロス指揮メトロポリタン歌劇場、テバルディ(ソプラノ)

●プッチーニ『ラ・ボエーム』トスカニーニ指揮NBC交響楽団、アルバネーゼ(ソプラノ)
●シューベルト『交響曲第8番 未完成』ワルター指揮ウィーン・フィル
●シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』クレーメル、カシュカシアン、ヨーヨーマ他
●シューベルト『ピアノ・ソナタ第21番』アファナシエフ(ピアノ)
●シューベルト『冬の旅』フィッシャー・ディースカウ(バリトン)、ムーア(ピアノ)

●ショスタコーヴィチ『ヴァイオリン協奏曲第1番』オイストラフ(ヴァイオリン)、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル
●シベリウス『交響曲第7番』ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル
●ヴェルディ『ドン・カルロ』ショルティ指揮コヴェント・ガーデン歌劇場、テバルディ、ベルゴンツィ
●ワーグナー『神々のたそがれ』ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団、ニルソン、ヴィントガッセン
●ヴォルフ『歌曲集』フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ムーア(ピアノ)



とりあえず、の選択である。
今後紹介していく過程で変わる可能性は十分ある(笑)。
一応、上から順に一枚一枚のCDを簡単に紹介していこうと思う。
今回はとりあえずアタマの4枚のCDをご紹介。

バッハ『イギリス組曲全曲』ヴェデルニコフ(p)(62年)

アナトリー・ヴェデルニコフはロシアのピアニスト。(1920~1993)
長らく幻の存在であったが、没後の1994年にまとまった録音が日本でもデンオンから発売された。
その際に数多く発売されたCDの中にバッハ・アルバムが一枚あったが、その中に『イギリス組曲第6番』が収録されていた。
これが信じられないくらい素晴らしい演奏だったので、その後にここで紹介する『イギリス組曲全曲』が発売された時には飛びついた。

バッハをピアノで弾くと言えば、なんといってもグレン・グールドが有名で、もちろん私も好きだが、このヴェデルニコフの演奏を聴いた瞬間、グールドはどこかに吹っ飛んだ。
バッハにせよ、ピアノにせよ、こんな感動的な演奏はめったに聴けるものではない。
たった一台のピアノが鳴っているだけなのに、どうしてこんなに聴く人の心に響くのだろう。
特に第2番第6番はすごい。
残念ながらこのCDは現在廃盤だが、たまに中古盤屋で見かけるので機会があれば是非。



●ベートーヴェン交響曲全集 トスカニーニ指揮NBC交響楽団(39年)

私の最も敬愛する指揮者はトスカニーニである。
トスカニーニのベートーヴェン・チクルスとしては晩年にRCAに残した正規録音が有名だが、ここに挙げたのは39年に行われた伝説的なベートーヴェン・チクルスのもの。
当然音質は古いが、音楽の推進力といい、リズムの切れといい、旋律の歌わせ方といい、聴き手をガッチリ捉えて離さないのは明らかにこちらの方。
昔からいろいろなレーベルで復刻されているが、近年ミュージック&アーツから復刻されたBOXが音が良くておすすめ。
ちなみに、トスカニーニ晩年の『英雄』では53年のものばかり再発されているが、49年の演奏の方がずっと良い演奏なのにが再発されないのは不思議でしょうがない。



●ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番 カペー弦楽四重奏団(28年)

名曲揃いのベートーヴェンの弦楽四重奏曲の中でも14番はやはり特別。
数多いベートーヴェンの傑作中でもとりわけ優れた出来栄えの作品なのではないかと思う。
とにかく、この音楽はフツーの音楽ではない。
戦前ならブッシュ、戦後でもブタペスト、ジュリアード、バリリ、スメタナ、ヴェーグ等、素晴らしい演奏が揃っているが、なんといってもカペーに止めを刺す。
恐ろしいほどの名演奏なので、おいそれとは聴けないのが欠点と言えば欠点。




●ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』シューリヒト指揮シュトゥットガルト放送響、シュターダー、ヘフリガー(57年)

その昔Archiphonというレーベルからブラームスの1番とカップリングで出たCD。
このレーベルはカール・シューリヒトのCDを数多く出していたが、音質も良く、解説等もしっかりしていた。

大学時代に音楽鑑賞のサークルに所属していたが、そこで人に聴かされて感動したのがこの演奏。
ミサ・ソレムニス』という曲は冗長で重ったるい印象が強く、さほど好きな曲ではないが、これは実に素晴らしい。
この曲はシューリヒトの18番だったようで、彼らしく速めのテンポでスッキリと仕上げた演奏ながら、内に秘めた感動は並々ならぬものがある。
マリア・シュターダー(ソプラノ)の歌声がまた素晴らしく、録音もモノラルながら極上。
これもCDはすでに廃盤だが、中古屋ではよく見かけるし、価格もそれほど高くない。



続きます。

世界的なバリトン歌手ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウDietrich Fischer-Dieskau)が先日亡くなった。
享年86歳だからいつ亡くなってもおかしくない年齢だが、およそ“死”というイメージとはかけ離れた健康的なイメージの人だったから、訃報は大変意外に思われた。

大往生というに相応しい、あまりにも偉大なる芸術家の死であるが、大げさでなく、私にとってもある意味人生の師といってもよい存在だった。
確かに人生のある時期、私の生活はほとんどこの人の歌声とともにあったからである。

私もこの人によってドイツ・リートの深遠な世界に引き擦り込まれた。
まだ予備校生だった頃、代々木にジュピターという輸入盤屋があったが、そこでシューベルト美しき水車小屋の娘』のCD(ドイツ・グラモフォン)を買ったのが最初である。
その繊細でロマンティックな世界にすぐに虜となってしまった。

次に聴いたのが同じくシューベルトの『冬の旅』(ドイツ・グラモフォン)だったが、『水車小屋』とは全く異なる、あまりに暗く厳しい音楽世界に面食らった。
それでも、音楽に限らず“名作”を理解しようと必死だった頃だから、毎日のように聴き続けた。
ある時期は寝る前にDFDの『冬の旅』を聴くのが日課だったほどである。

思えばなんともネクラな青春時代だったわけだが、逆に言えば、DFDの『冬の旅』を毎日聴ける贅沢な生活を送っていたといえるわけで、この上ない幸福な日々だったと言えるだろう。
『冬の旅』こそあらゆる音楽中の最高傑作と信じるようになったのもDFDのお陰である。
もちろん、『白鳥の歌』のハイネ歌曲の恐ろしいほど深遠な世界を教えてくれたのもDFDであった。

たった一度だが、生演奏にも触れた。
89年5月、サントリーホールにおけるル・シューベルト・プログラムによるリート・リサイタルである。
2部構成のプログラムで、内容的には1部の最後に『魔王』を歌ったことくらいしか覚えていないが(パンフが家のどこかにあるはずだ)、衰えを知らぬ強烈な声の印象は今も脳裏から離れない。
DFDはその後も来日公演を行ったが、92年には引退してしまったから、彼の生演奏に触れる機会はそれが最初で最後になってしまった。

CDにおけるDFDの印象深いリート演奏というと、やはり上に上げたシューベルトの三大歌曲集ヴォルフのメーリケ歌曲集シューマン『詩人の恋』、ベートーヴェン『遥かなる恋人に寄す』など枚挙に暇がない。
ただし、シューベルトでもあの歌曲大全集は個人的には買わない。
確かに偉業だが、あまりに満遍なく平均化された演奏の連続で、聴いていて面白みに欠けるからだ。
DFDの声も一番魅力のない頃(60年代後半)だったと個人的には思う。

むしろ、最近もCDで復刻された50年代にEMIに録音したシューベルトの歌曲の数々が素晴らしい。
無限なる者へ』、『墓堀人の郷愁』、『さすらい人の月に寄せる歌』といった一ひねりある楽曲の素晴らしさはDFDのどこか皮肉な持ち味と相まって比類なかった。

もちろん、オペラも忘れてはならない。
個人的にはやはりグナー、それもヴォータン(『ラインの黄金』)やハンス・ザックス(『マイスタージンガー』)のような主役よりも、ヴォルフラム(『タンホイザー』)、クレヴェナール(『トリスタン』)、グンター(『神々のたそがれ』)、軍令師(『ローエングリン』)といった脇役の方が印象深い。

そして、個人的に絶対に落とせないのがクレンペラーの指揮したブラームスドイツ・レクイエム』におけるバリトン独唱である。
このCDはあらゆるジャンルのCDの中でも私の最も愛聴しているものだが(いずれまた書く機会があるだろう)、第3曲「主よ、知らしめたまえ」におけるDFDの独唱がなかったら、絶対にここまで好きになっていなかっただろう。

最後に個人的な願望。
87年にDFDがサントリーホールで行った『冬の旅』のリサイタルのDVD化である。
これは当時NHK教育テレビで放送されたのを観て、物凄く感動した憶えがあるのだが、とりわけ21曲目「宿屋」の毅然とした素晴らしい歌唱、そして、それを歌い終えた後の彼の表情がいまだに忘れられないのだ。
録画もしたのだが、親戚の家に保管していたせいか、紛失してしまった。
NHKにはおそらく映像が残っているはずだから是非とも世に出してほしいものである。

とにかく今は残された膨大な録音の数々を耳にしながら、この大芸術家を偲ぼうと思う。合掌。



db0b74e4.jpegこのブログでクラシック音楽について書くのは珍しいが、これはどうしても書き残しておきたい。
ルーマニアの名ピアニスト、ラドゥ・ルプーRadu Lupu)が11月に来日公演を行う。

●2012年11月8日 (木)19:00 開演
東京オペラシティ コンサートホール
-シューベルト・プログラム-
16のドイツ舞曲 D783, op.33
即興曲集 D935, op.142
ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960 (遺作)

●2012年11月13日 (火)19:00 開演
東京オペラシティ コンサートホール
プログラム
フランク:前奏曲、コラールとフーガ
シューベルト:即興曲集 D935, op.142
ドビュッシー:前奏曲集第2巻

ルプーは1945年生まれだから御年66歳、“千人に一人のリリシスト”のキャッチフレーズで70~80年代はデッカレーベルに頻繁に録音を行っていたが、90年代のある時期を境に録音もインタビューも一切拒否、コンサート以外は公の場に出てこなくなった。

実は2010年秋に来日したが、初日の京都公演の後に体調不良のため残りの公演をキャンセル、帰国してしまったという。
クラシック音楽に長らくご無沙汰の私は当時そのことを知る由もなく、後からルプー来日のニュースを知り愕然としたのだが、今秋の来日公演が実現したのはもしかしたらそのキャンセルのお陰なのだろうか。
そういう意味ではラッキーといえばラッキーだが、今度の来日公演も実質11年ぶりで、次回いつあるか分からないし、今回だって本当にあるかどうかまだ分からない(どうも長時間のフライトが苦手な人らしい)。

こんなことを書くのも私が昔からルプーのピアノのファンだったから
学生時代から彼のCDをよく聴いており、特にシューベルト楽興の時と19番ソナタのCD16番と18番ソナタのCD)、ブラームスの小品集のCDがお気に入りだったが、実は11年前の来日時(2001年11月)にもルプーのリサイタルを藤沢市民会館で聴いているのである。

その時は驚くことに2列目ほぼ中央という良席だったので、ルプーの音楽をまさに心行くまで堪能することができた。
プログラムはシューベルトの19番ソナタがメインで、他にベートーヴェンのソナタや同郷のエネスコの曲なども確か演奏されたと記憶しているが、やはりシューベルトの印象が強烈だった。

寡黙な人というイメージが強い割に、一旦演奏を始めるとうなり声を上げながらガンガンピアノを弾いたのには驚かされたが(特にベートーヴェン)、当然のことながらピアノの音の美しさは比類なかった。
メインのシューベルトのソナタはルプーの抒情的な音楽性が作品の本質にピタリと溶け合い実に感動的だったし、アンコールで弾いたシューベルトの楽興の時の第3番、第6番などもまるで時間が止まるかのように一音一音が精妙に紡ぎ出された詩的な演奏だった。
あのリサイタルは忘れられない。

今秋の来日公演のお得意のシューベルト・プログラムでは最高傑作の一つ、ピアノ・ソナタ第21番が演奏される。
この曲のルプーのCD(94年録音)も聴いているが、ルプーとしてはもう一つ踏み込みが浅いというか表現が熟しきっていない憾みがある。
その録音から年月も経っているので、現在のルプーがこの曲をどう演奏するのか興味は尽きないし、同じくシューベルトの即興曲集D935、そしてドビュッシーの前奏曲集第2巻(ルプー未録音)が今回の来日公演で演奏されるのも実に楽しみだ。

 
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