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メルヴィル監督とアンリ・ドカの関係についてズラズラと書き連ねてまいりましたが、今回の最終回は、前回紹介したドカのインタビューで、ドカが指摘していたメルヴィルの“変化”についての私見を述べてみたいと思います。

ドカは、晩年のメルヴィルは商売人になってしまって、金のことばかりに目がくらんでいた、映画館を満員にすることばかり考えて、自身の映画さえ平気で犠牲にした、と厳しく批判していました。
本当にそうだったのでしょうか?

image15.gifアンリ・ドカは当時のフランス映画界でメルヴィルに最も近い人物であり、25年もの長きの間の友人です。
ましてや、フランス映画界の紳士と言ってよいような物腰の柔らかさと謙虚さを兼ね備えた人物であることは以前紹介したインタビュー(メルヴィルとアンリ・ドカ その4)でもご理解いただけるでしょう。
(画像はトリュフォー監督作『大人は判ってくれない』の撮影現場でのもの。右からアンリ・ドカ、フランソワ・トリュフォー、ジャック・ドュミ、右後ろに撮影を見に来ていたジャン=リュック・ゴダール)

そのドカの言うことですから、間違いはないように思えますが、私はどうしても納得のいかない点があるのです。

ドカに言わせれば、メルヴィルが変わったのはドロンとの出会い、つまり『サムライ』(67年)以降ということになります。
しかし、それからメルヴィルが急激に商業主義に傾いたのでしょうか?
むしろ、私は、それ以前から、ハッキリ言えば60年代に入ってからのメルヴィルはすでに商業主義に傾いていたと思うのです。
事実、『マンハッタンの二人の男』(58年)監督後、メルヴィルはすでにこんな言葉を残しているのです。



『もう、こんなことは終わりだ。これからは商業映画を撮る。金になる映画を撮る。それでも決して自分を裏切るようなことにはならないだろうと思う』
(引用―「キネマ旬報」1970年春の特別号NO.520「J・P・メルビル+その他の人びと その全作品を語る」より)



なんと、分かりやすい、ハッキリした宣言でしょう。
これは、疑いなくメルヴィルの商業主義宣言と言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、この言葉には、たとえそういう映画を撮っても、決して質の低いものにはしないという決意のようなものも窺えます。
また、ルイ・ノゲイラの『サムライ』のインタビューでもこの時期のことを回想して、次のように述べています。



『当たらない映画を撮り続ける気はもうこれっぽっちもなかった。呪われた作家、少数派の映画狂にだけ知られた存在でいるのはうんざりだった。』
(引用―ルイ・ノゲイラ著 井上真希訳 晶文社刊「サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」より)



もっと大衆に好まれる、映画館が満員になるような映画を作りたい、もっとたくさんの人たちに自分の映画を観て欲しい――これは映画人として当然の欲求でしょう。

image14.gifそして、この宣言の後、カルロ・ポンティ、ジョルジュ・ド・ボールガールの製作で監督したのがジャン=ポール・ベルモンド、エマニュエル・リヴァ主演の『モラン神父』(61年)です。
この作品はヒットし、ヴェネチア映画祭で賞を獲るなど、作品としても高く評価されました。
いわば、金になった上に、自らをも裏切らない作品を撮り、商業的にも、芸術的にも成功を収めたのです。

そして、この作品からベルモンドとの関係が生まれ、この後、『いぬ』、『フェルショー家の長男』とジャン=ポール・ベルモンド主演作を立て続けに3作も監督します。
『勝手にしやがれ』でスターになったばかりのベルモンド、あのアラン・ドロンの永遠のライバル、ベルモンドとこの時点で3作も立て続けに撮っているという事実、カルロ・ポンティなどの大プロデューサーと映画を作っているという事実(『いぬ』もそうです)からいっても、この時点で既にメルヴィルが商業主義に傾いているのは疑いないでしょう。

しかも、『モラン神父』、『フェルショー家の長男』では当のアンリ・ドカがキャメラを担当しているのです。
メルヴィルがこの時点ですでに商業主義を意識した映画を撮っていることは、同じセットに居た当のアンリ・ドカが誰よりもよく知っているはずなのですが。

“スター”といえば、メルヴィルは、リノ・ヴァンチュラ主演作も2作(『ギャング』『影の軍隊』)監督しています。
アラン・ドロンと組む前から、“スター”を積極的に主演に起用している事実は、メルヴィルが以前から商業主義に傾いていた何よりの証拠でしょうし、そして、それは、メルヴィルが映画人としてこの業界で生き残っていくために当然の行動だったと思うのです。

image13.gifそれと、“ドロン主演作=商業主義”という図式はいかにも分かりやすいし、実際、ドロンをキャスティングする製作側の意図にそういう側面は否定できないでしょうが、問題とすべきは生まれ出た作品だと思うのです。
私個人の意見では、メルヴィルがドロンと組んだ(少なくとも)『サムライ』、『仁義』においては、メルヴィルは(彼自身の言葉を使えば)自分自身を裏切っていないと思います。

例えば、『サムライ』。
アラン・ドロン主演作ということである程度大衆がついてきたことは間違いないのでしょうが、作品の内容は、決して大衆的でも分かりやすくもないし、むしろ、そういった側面を拒絶しているようにも見えます。
例えば、ドロンともっと派手なアクション映画でも撮っていれば、ドカの批判も理解できるのですが・・・。

そして、『仁義』はフランス映画史に残るような大ヒット作となりましたが、むしろ、今観る我々には、決して派手とは思えないあの作品(むしろ、相当地味な作品ではないでしょうか。前年1969年の大ヒット作『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)と比べてみて下さい)が大ヒットしたという事実は、メルヴィルの作風が急激に通俗的になったせいでは決してないでしょう。
確かに(お金をかけたに違いない)豪華キャストは話題になったでしょうし、公開直前のブールヴィルの死もヒットの一因として考えられますが、映画が当たった大きな理由としては、メルヴィル描くところの、あの独特のクールな世界が観客に受けたのだとしか私には思えません。

そして、仮にメルヴィルが“商売人になって”撮った作品が『サムライ』であり、『仁義』であるならば、私はドロンと組んだメルヴィルの芸術的嗅覚というかセンスは正しかったと思うのです。

メルヴィル&ドロンの最後の作品となった『リスボン特急』は、確かにメルヴィルの監督作品としては質が高いとは言いがたいし、安易とも思える自己引用があまりに目に付くという点でファンとしても納得のいかない作品ではあります。
(メルヴィル自身それはよく分かっていたようで、後に作品について問われた際、「『リスボン特急』なんて作品は撮った覚えないよ。」と冗談めかして答えていたようです)
しかし、あの『サムライ』を撮り、大ヒット作『仁義』を撮ったら、まずプロデューサー(ロベール・ドルフマン)がドロンとメルヴィルでもう1作撮ろうと考えるのも当然でしょうし、何より当のメルヴィル、そして、ドロンが(映画人としての本能的な欲求として)望んだことではなかったかと思うのです。

そして、その『リスボン特急』において、ドカの予想通り、ドロンとメルヴィルはぶつかるわけですが、ある意味、メルヴィル、ドロン、双方が納得する形で二人の関係は(後にメルヴィルの死があったにせよ)終わるべくして終わったのだと思うのです。



そして、決して忘れてはならないことがあります。
『サムライ』撮影中に起きた、ジェンネル・スタジオ焼失事件(67年6月)です。  

image12.gif自身のフランス映画界からの独立の象徴であり、文字通り牙城であった、スタジオの火事による焼失、これがどれほどメルヴィルにとって悲しい出来事であったかは本人にしか分かりません。
この火災によって、映画人としての全財産ともいえるスタジオ、そして、自身映画化を想定して書いていた脚本22本までもがすべて焼けたのです。
当時、メルヴィルは、ヨーロッパでも個人所有の撮影所を持っていた唯一の映画作家でした。
彼にとっての最大の拠り所であり、誇りがこのスタジオではなかったのではないでしょうか。
メルヴィルは、ショックのあまり火災の後約1年はスタジオ跡に足を踏み入れることができなかったといいます。
この事件が、ちょうどアラン・ドロンと初めて組んだ映画『サムライ』を撮っていたその最中に起きたというのもなんとも象徴的です。
(画像はクライテリオン盤DVD『サムライ』特典映像より、火災後のスタジオ跡にたたずむメルヴィルの姿)



「思うに、このとき、ジャン=ピエール・メルヴィルは一度死んでしまったのである。(略)全焼のあと、メルヴィルは、アラン・ドロンという商業性すなわち興行価値のあるスターとかたく手を結ぶことによって(略)すなわち商業主義の磁場に身を捨てることによって、ふたたびよみがえったのだ。たぶん、それ以外に立ち直る方法はなかったにちがいない。」
(引用―山田宏一著 ワイズ出版 「山田宏一のフランス映画誌」より)



山田氏の認識はドカの認識と大部分重なるものであり、私はそこに氏のある種の強い思い込みを感じずにはいられませんが、ここでは、その部分には踏み込まないことにします。
後に、メルヴィルは吹っ切れたのか、スタジオを再建する計画を立てますが、結局、その夢叶わず、この世を去ることになります。(73年8月)

確かにドカの言うとおり、メルヴィルは『サムライ』を撮った頃から金にうるさくなったのかもしれません。
しかし、このような不幸な災難にあった彼が、金にうるさくなったといって、誰が非難できるでしょうか?
被災後のメルヴィルにとって、当たらない映画を撮ることは映画人としての死をも意味するものではなかったでしょうか?
また、メルヴィルはこんな言葉も残しています。



「(映画作家は)いつもすべてを賭けなければならぬ。二十五年ものプロとしてのキャリアがありながら、私は完成した最新作を公開するために、すべてを担保に置かなければならないのだ」
(引用―キネマ旬報1972年12月下旬号NO.595 「リスボン特急」とメルビル監督 より)



もともと、メルヴィルは、(商業主義に傾いた後も)客が映画館にわんさか押しかけるような大衆映画を撮っていたわけではないし、むしろ、スターを積極的に起用しつつも、エンターテインメント性の強い作品を作る存在とは晩年に至るまで縁遠かったといえます。
その彼がもっと自分の作品を大衆に観てもらいたい、映画館を満員にしたいという、職業人として当然の欲求を持ったとして誰が批判できるでしょう?
そして、私は、彼が稼いだ金を他ならぬスタジオ再建のために使おうと考えていたのだと(ファンの贔屓目かもしれませんが)思っているのです。



長々と書いてまいりましたが、結局のところ、私は、メルヴィルがドロンと組みはじめてから突然商業主義になったというわけではないこと、また、火災事故の後でお金に対してシビアにならざるをえない側面があったであろうことを述べたかったわけです。
そういう意味で、ドカのメルヴィルに対する批判は納得のいかない点があるのです。

image10.gifしかし、だからといって、ドカの言っていることが間違いだという気はありません。
誰が何と言おうと、一番近くでメルヴィルという人間の人となりを知っている人物の発言が一番真実に近いと思うからです。(かといって真実そのものだと言うつもりもありませんが)
私がここに述べた考えの根拠は、あくまで資料、しかも数少ない資料の中にしかありませんが、どう足掻いても、同じ空気を吸っていた者同士の皮膚感覚による人物観察にはかないっこないと思うのです。

ただ、ドカのメルヴィル批判は、同じ空気を吸っていた者同士ゆえに、感情が複雑に絡み合っているようで、ほとんど愛情の裏返しとも取れないことはありません。
ドカはメルヴィルの変化に対して、“悔しい”という言葉を使っています。
自分勝手な推測かもしれませんが、私はそこに、自身、かつてその才能を最高に発揮できたパートナーとの間に、最後までクリエイティヴな関係を全う出来なかった一人の人間の、悔恨の叫びを感じてしまうのです。

(上の画像は『サムライ』撮影風景で(フランソワ・ペリエ演じる警視のオフィスのシーンと思われる)、メルヴィルとアンリ・ドカが一緒に写っている貴重な写真)

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『仁義』撮影時におけるメルヴィルとアンリ・ドカの“ケンカ別れ”の続きです。

前回はメルヴィル側の言い分を紹介しましたので、今回はドカ側の言い分としまして、前々回紹介しました「キネマ旬報」のインタビューから、関連する部分を紹介します。
少々長くなりますが、メルヴィルとアラン・ドロンの興味深い関係も含め、いろいろ考えさせられることの多いインタビューです。



ドカエ 人の悪口を言いたくはないのですけれども、晩年のメルヴィルは、すっかり人が変わってしまって、ちょっと商売のことにばかり興味をもちすぎた傾向がありましたね。映画ファンの初心を忘れて、ちょっと実業家になってしまった。そんなことから、わたしたちはおたがいに疎遠になってしまった。

――映画ファンからしだいに実業家になっていったメルヴィルの変化は、彼の作品にもよく現われていたと思うんですが、その“変化”の転機は、アラン・ドロンとの出会いだったのではないでしょうか?  

ドカエ そのとおりですね、まったく。奇妙なことですが、メルヴィルはずっと以前からアラン・ドロンに興味をもっていて、わたしに、なんども、ドロンに会わせてくれと言ったものです。わたしは『太陽がいっぱい』以来、もうなんどかドロンといっしょに仕事をしていたし、知り合いでしたからね。しかし、それだけに、わたしは、メルヴィルとドロンがうまくやっていけるはずがないと思って、あえてふたりをおたがいに紹介しなかった。メルヴィルは俳優を平気で自分のイメージのためにいけにえにするし、その意味では俳優を軽蔑すらしていた。ところが、アラン・ドロンはスターであり、すべてのひとに自分をスターとしてあつかうことを要求している。この強烈な個性をもったふたりが出会っても、うまくいくわけがない!image8.gifところが、それから、たまたま、メルヴィルは、『サムライ』で、アラン・ドロンと組むことになったわけです。そして、すべてがじつに順調にいったのでした。アラン・ドロンはメルヴィルのやりかたにすっかり惚れ込んでしまったし、メルヴィルのほうも、いつもの自我意識を捨てて、ドロンのイメージに熱中したんですね。そんなわけで、メルヴィルはわたしにちょっと文句を言ったものです――「どうだい、アンリ、うまくいったじゃないか。二年もまえから、おれはきみに、アラン・ドロンと会わせてくれってたのんでいたじゃないか。もっと早くあいつと会って映画を作りたかったよ」そこで、わたしはメルヴィルにこう言い返してやったものです――「たしかに、そのとおりだ。でも、二年まえのきみには、アラン・ドロンをうけいれるだけの心構えができていなかったよ」とね。次いで、メルヴィルは、ふたたびドロンと組んで、『仁義』を撮り、これもうまくいきました。メルヴィルも、ドロンも、おたがいをプロとして、深く尊敬し合っていたんですね。しかし、じつは、そのために、おたがいに、妥協し合うかわりに、それぞれの高みにまで達しようとして背伸びし合う結果になってしまった。『リスボン特急』のときには――わたしはこの映画のカメラは担当していないのですが――完全にふたりは仲違いしていたと思いますね。わたし自身も、『仁義』が終わったときには、メルヴィルとはケンカ別れをしてしまった。メルヴィルはひどく独裁的で、一方的で、撮影スタッフや助監督たちをののしったので、そのことで、わたしはメルヴィルに抗議をしたのです。

――アラン・ドロンはどうだったのですか?

ドカエ ドロンはプロの俳優として完璧だったと思います。能力もあるし、やる気もありますからね。ただ、つねにスターとしてふるまう。それは彼のスターとしての矜持であって、当然のことなわけです。たとえば『黒いチューリップ』の撮影中に、製作関係でちょっといざこざがあって、ドロンのことをないがしろにしてしまった。そういうことはドロンの気に入らない。どんなときでも、彼はナンバー・ワンのスターとして尊敬されないと気がすまない。ところが、メルヴィルに対してだけは、そんなスター意識を捨ててぶつかっていったんですね。にもかかわらず、最後には、歯車が噛み合わなくなり、衝突してしまった。わたしが思うに、わるいのは、やはりメルヴィルであって、ドロンではない。メルヴィルぐらい映画を心から愛していた監督もいなかったのに、晩年の彼はすっかり商売人になってしまって、映画づくりや撮影そのものにも興味がなくなったようでした。金だけに目がくらんでいたような気がするんですね。残念なことですが・・・・・・。映画館を満員にすることばかり考えて、彼自身の“映画”を平気で犠牲にするようになってしまった。わたしとしては、とても残念で、くやしいと思いましたね。
(以上、引用 ~ キネマ旬報 1976年四月上旬春の特別号 NO.680「アンリ・ドカエ氏 愛をこめて映画と自己についての総てを日本で語る」より ~ 画像はクライテリオン盤DVD『仁義』特典ディスクより)



メルヴィル・ファンにとりましては、ショッキングな言葉が並びます。
すでにメルヴィルが亡くなって2年以上たった後のインタビューですが、ドカの腹の虫は収まっていないようです。
ドカは“ケンカ別れ”の原因として、メルヴィルの“変化”と、撮影時の独裁的な振舞いを挙げています。
しかし、私の想像ですが、ドカの怒りは(メルヴィル自身予期していたとはいえ)ルイ・ノゲイラの『サムライ』にあまりに露骨なドカ批判が載ってしまったことが大きかったのではないでしょうか?
ドカが抱いていた、晩年のメルヴィルの変化(これには賛否あると思いますが)に対する個人的な不満と『仁義』撮影時のトラブル、それに加え、ルイ・ノゲイラの本におけるドカ批判が重なれば、その怒りも無理はないのかもしれません。
いくら『仁義』の撮影において関係が上手くいかなかったとはいえ、長年のパートナーでもあり、当時フランスを代表する大キャメラマンとなっていた自分のことを、“本”という後世にも残る形で批判されたドカとしては、“メルヴィルはなんてひどいヤツだ!”となってもおかしくないでしょう。

次回、最終回(予定)では、ドカ言うところの、メルヴィルの“変化”に対する私の個人的な考えを述べてみたいと思います。(大したことは言えません)

今日、7月31日はアンリ・ドカの誕生日です。
ドカは87年に亡くなっていますが、1915年生まれですので、生きていれば92才となるはずです。

メルヴィルとアンリ・ドカの長年の関係は『仁義』の撮影において“ケンカ別れ”という形で事実上の破局を迎えます。
この件に関して今回、次回と簡単な検証をしてみたいと思うのですが、二人のどちらかに白黒をつけるのが目的ではありません。
事実、それだけの材料がありませんし、本当のところは当事者同士にしかわからないと思います。
しかし、このことは、二人の関係を探っていく中で決して避けられない問題ですし、二人が当時それぞれ抱えていた問題を炙り出すキッカケの一つにもなると思います。

まずは、メルヴィルがこのことについて述べている、ルイ・ノゲイラ著『サムライ』の部分を引用してみます。
インタビューの時期は『仁義』撮影後から公開前の間、つまり1970年の半ば頃と思われます。



私は完璧主義者になったが、同時に、二十五年来一緒に仕事をしている人々は次第に完璧主義でなくなっている。言い換えれば、この二十五年の経験から、二十五年前には、フランスの仲間うちには非常に有能な人々がいたのに、その人々が著しく有能でなくなったという印象があるんだ。「あの人々」と言おう。現在、私の知らない若手がいることは疑いがないし、録音技師のことも、撮影監督や撮影技師のことも念頭にあるんだからな・・・・・・。
(略)
07dd1712jpeg(『仁義』の撮影が延びたのは)私と一緒に仕事をした人間たち、私とともにセットにいた男女が、まったくその任に堪えなかったからだ。それを口にするのはいっそうつらいんだが――いつか本に書かれ、いわば決定的になることがわかっているので――私がかつて大好きで、もっとも、ずっと好きなんだが、最初に共同作業をした男が一緒だっただけにね。年代的なことだけじゃない。その男は私の「第一の」共同作業の相手、つまり、質においても、緊密な結びつきにおいても、アイディアや技術、研究の共犯者としても、全員のなかで一番の人間だったんだ。
(略)
自分が指揮していたスタッフとの関係の苛酷さ、あの集団に痛めつけられ、打ちのめされるという絶え間ない拒絶に、どれだけ苦労したことか。彼らは浜辺の水母(くらげ)みたいなものだよ。水母は人が動かさない限り動かないだろう?(略)(私は)まったく超人的な努力と引き換えにあのスタッフを動かしたんだ。
(略)
あのプロ意識や自覚の欠如は、全カットについて明らかだった。
これから私が一緒に仕事をするのは、私生活より仕事(メチエ)を優先させる人間になるだろうと思う。
(引用―ルイ・ノゲイラ著 井上真希訳 晶文社刊「サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」より、画像はクライテリオン盤DVD『仁義』特典ディスクより、『仁義』の撮影風景)


 
名指しこそされていませんが、メルヴィルの念頭にあるのがアンリ・ドカのことであるのは明白です。(ちなみに『仁義』の記録係はドカの奥方ジャクリーヌ・ドカ)
もちろん、ドカ一人だけでなく、『仁義』に携わったほとんどのスタッフに向けられた批判であるわけですが。(本の中で、小道具係だけが例外だったとメルヴィルは語っています)

次に、クライテリオン盤DVD『仁義』に収録されている、ルイ・ノゲイラのインタビューから二人の関係について述べている部分を翻訳し、簡単に要約してみます。(インタビューの時期は2003年、画像もその時のもの)


 
『仁義』の撮影時、メルヴィルは彼にとっての“一番”の協力者と一緒でした。
“一番”というよりは、メルヴィル言うところの“第一の”共犯者ともいえるその人物は、処女作『海の沈黙』を共に作ったアンリ・ドカのことです。
同時にドカはメルヴィルに最も近い人物でもありました。

f6fbec29jpeg彼らが行った創造的な試みはフランス映画に新たな発展と活力を与えました。
そして、それは“ヌーヴェル・ヴァーグ”となった。
“ヌーヴェル・ヴァーグ”の生みの親が誰かを問うならば、監督はジャン=ピエール・メルヴィル、キャメラマンはアンリ・ドカだと言えるでしょう。
この二人がフランス映画を根こそぎ変えたのです。

ところが、二人の関係は『仁義』では上手くいかず、メルヴィルは失望してしまった。
その頃、ドカは映画界では名士といえるほどの有名人になっていました。
さまざまな名監督と仕事をこなし、外国の監督がパリに来ると、一緒に仕事をしたいキャメラマンとしてまず名前が挙がるのがドカだったのです。
しかし、その頃、ドカは年老いて疲労が蓄積していた。
また、ドカをサポートする撮影スタッフも、ほとんど同様でした。

当時、メルヴィルが他の映画監督たちと同様にモノクロの映画を撮りたがっていたのは明らかだったけれども、メルヴィルの場合、少々事情が違っていた。
彼は、とてもくすんだカラーの映像を撮りたかった。
とてもぼやけた、あいまいな色のね。
ただ、ひとつの色の要素がわずかに強く、それが映画が実際にはカラーであるという証拠となっているというような。
だからこそ、メルヴィルには、あえてカラーの映画を撮りたいという願望があったんですね。
これには、自らすすんでリスクを犯す勇気のある撮影監督が必要です。
ところが、メルヴィルにとってドカはもはやそういうキャメラマンではなかったのです。
 


この連載の“その2”で紹介したルイ・マルのインタビューを憶えてらっしゃるでしょうか。
そこにはドカのことを「たしかに大キャメラマンになったのですが、しかし何かが失われてしまったような気もします。『死刑台のエレベーター』のころの彼はすばらしかった。どんなことでもやってみようという実験精神を持っていた。」と評した言葉がありました。
柔らかい言い回しですが、これは、後にはドカに実験精神がなくなったと言っているようなものです。
今回紹介したメルヴィルとノゲイラのインタビューは、このルイ・マルの言葉を裏付けているような気がします。
せっかくのドカの誕生日にドカ批判の文章ばかり打ってしまって少々気が引けますが・・・。

次回は、前回紹介した『キネマ旬報』のドカのインタビューから、この問題に触れる部分を紹介したいと思います。

この連載(?)の「その1」において、山田宏一著「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」に掲載されているアンリ・ドカのインタビューの一部を紹介しましたが、そのインタビューの全文が掲載された「キネマ旬報」をこのたび入手しました。

image6.gif「アンリ・ドカエ氏 愛をこめて映画と自己についての総てを日本で語る」と題された、8ページにわたるそのインタビュー記事(フィルモグラフィー含む)は、山田宏一、中山章、白井佳夫各氏によるもので、ドカの話の内容は、メルヴィルとの関係、メルヴィルとドロンの関係、『太陽がいっぱい』や『大人は判ってくれない』など撮影を担当した作品の秘話、そしてカメラマンとしての理念哲学にまで及んでいます。
あまりに濃い内容なので、この記事を読んでからこの連載も始めるべきだったと後悔しているくらいです・・・。(左の写真はこの記事に掲載されていたものです)

実は、今回は『仁義』撮影時のドカとメルヴィルの“対立”について書き連ねる予定でしたが、その前に、ドカがどのような考えを持って映画の撮影に当たっていたカメラマンだったのかを理解することも重要だと思われますので、まずはこのインタビュー記事から、ドカのカメラマンとしての哲学を感じさせるいくつかの言葉を抜粋して紹介したいと思います。



ずっと長いあいだ、わたしは自分で直接カメラを回し、カドラージュ(映像構成)も、ライティング(照明)も、自分でやっていました。ジャン=ピエール・メルヴィルの映画の場合も、フランソワ・トリュフォの映画の場合も、もちろん、そうでした。
それから、わたしは、いわゆる撮影監督になったわけですが、フランス映画の場合は、たいてい、自分自身でカメラを回していました。ハリウッドでは役割の分担がはっきりしていますから、自分でカメラを回すようなことはありませんが。いずれにせよ、わたしにとっては、カメラを回すことも、カドラージュも、ライティングもすべてひとそろいであって、別々に切りはなすことはできないものです。だから、撮影スタッフは、原則として、いつも同じ気心の知れ合ったメンバーで構成しているのです。スタッフが外国人で、ことばがよく通じないと面倒ですね。ほんとうの共謀者になってもらえないのです。
 

――どんなきっかけで映画をやろうと思ったのですか?

子供のころ、毎週一回、両親が映画を見に連れて行ってくれたものですが、わたしは、あるドキュメンタリー映画のなかで、カメラマンが波に揺られて決死の撮影を行っている姿を見て、すっかり魅了されてしまった。あんなふうなことをやりたいと父親に言ったところ、「なにを言ってるんだ、おまえにできるわけがない」と一笑に付されてしまいました。この父親の一言が、わたしを逆に決意させましたね――よし、この仕事に一生を賭けてやろう、と。
(略)
カメラというのは演出の協力者にしかすぎないというのが、わたしの持論であり、心構えでもあるわけです。だから、カメラというのは、監督が真に個性的で独創的なアイデアをもたらしてくれたときにのみ生きることは、言うまでもありません。カメラは監督のアイデアをフィルムに具現化するわけですが、それにしても、その演出のアイデアがすばらしくなければ、映像もけっしてすばらしいものにはなりえないのです。
(略)
カメラマンの心得として最も重要なことは、まず、監督のやりかたを理解することだとわたしは思っています。
(略)
監督とカメラマンとのあいだの相互信頼がなければ、映画はうまくいきっこない。ともかく、撮影する側としては、監督の絶対的信頼を獲得すると同時に、監督の気質や傾向を理解することが先決ですね。監督によっては、構図ばかり異常に凝るひともいます。人間も物と同じようにあつかって、ただひたすら構図だけを完璧にしようとする。そんな場合には、わたしは、人物にいきいきとした存在感をあたえるために、照明をうまくつかって、監督の求める構図をなるべく作り出すように努力します。また、構図なんかにはまったく無頓着な監督もいます。メルヴィルなんかはどちらかと言うと、そうでしたね。これはかなり面倒なケースでしたね。いずれにせよ、撮影監督というのは、演出家の協力者なのですから、あくまでも、監督の演出の意図を見ぬき、いかにその映像化を助けるかということに、カメラのよさが出るのだと思います。演出ぬきの映像というのは、映画では考えられないものだと思いますね。

――あなたのカメラが作品に、あるいはむしろ演出に、影響をあたえたとは思いませんか?

思いませんね。第一、カメラマンが映画に影響をあたえる、方向をあたえるなんてことは邪道ですからね。カメラは、あくまでも、演出に従属すべきものです。演出をみちびくなんて、傲慢すぎる考えです。カメラだけが自己主張している映画に、いい作品があったためしがない。カメラは、演出のまえを突っ走るものではなく、そのあとを追ってゆくべきものです。わたしが思うに、カメラはつねに演出のかげに消滅すべきものです。監督のアイデアを、わたしたち技術者が、その意図になるべく近く実現する。カメラマンとしてのスタイルやヴィジョンを映画に主張するのではなく、監督の意図にできるだけ徹底的に隷属することによって、映画そのものを作り上げていくことこそ、テクニシアンとしての最大のよろこびなのです。

以上、引用 ~ キネマ旬報 1976年四月上旬春の特別号 NO.680「アンリ・ドカエ氏 愛をこめて映画と自己についての総てを日本で語る」より ~



アンリ・ドカ、このインタビューの時点で御歳60歳、すでに60作にわたる映画の撮影を経験していた“フランス最高額のキャメラマン”(ルイ・マル談)としては、なんと謙虚な言葉の数々でしょう。
話している内容に実に説得力があり、最後の方なんて、ちょっと感動的なほどです。
自らの役割に黙々と徹した、一人の技術者の姿をここに見ることができます。

アンリ・ドカがヌーヴェル・ヴァーグの監督に起用されるようになる経緯について、ルイ・マル監督の貴重なインタビューがありますので、紹介します。
当時のメルヴィル作品の受容状況を知る上でも貴重な証言です。



――『死刑台のエレベーター』のキャメラを担当したアンリ・ドカ(ドカエ)は、以後、ヌーヴェル・ヴァーグの名キャメラマンになる人ですが、その前はジャン=ピエール・メルヴィル監督の『海の沈黙』『恐るべき子供たち』『賭博師ボブ』のキャメラマンとして知られていたわけですね。

ルイ・マル いや、当時彼はまったく無名でした。ジャン=ピエール・メルヴィルの映画そのものがふつうの商業ルートからはずれたもので、一般にはまったく知られていなかった。メルヴィルはフランス映画のアウトサイダー的存在にすぎなかったのです。しかし、わたしたち、トリュフォーやシャブロルやわたしは、メルヴィルの映画に熱狂していた。
image5.gifなかでも、『賭博師ボブ』の冒頭のピガール界隈の夜の名残りの薄明の風景を絶妙なモノクロのトーンでとらえたアンリ・ドカのキャメラには、みんな驚嘆し、自分たちが映画をつくるときにはぜひアンリ・ドカのキャメラでやろうと話し合ったことをよく覚えています。
 結局、わたしが最初に映画を撮ることになり、『死刑台のエレベーター』のキャメラマンにはアンリ・ドカを使ったのです。そう、『賭博師ボブ』のあのすばらしい映像に魅せられて、アンリ・ドカに撮影をたのんだのです。そのあと、ヌーヴェル・ヴァーグの最初の作品のキャメラはほとんどアンリ・ドカがひきうけることになった。わたしの『死刑台のエレベーター』に次いで、シャブロルの『美しきセルジュ』と『いとこ同志』、それからわたしの『恋人たち』、そのあとすぐ、トリュフォーの『大人は判ってくれない』と矢継ぎ早に。

――エドゥアール・モリナロ監督の『彼奴を殺せ』やルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』などのキャメラも担当しましたね。

ルイ・マル そう、あちこちから引っ張り凧でした。シャブロルの『二重の鍵』の撮影もやっています。
 アンリ・ドカはちょっと前に亡くなりましたね。

――昨年(1987年)の三月に七十一歳で亡くなりました。わりと年齢(トシ)だったので、ちょっと驚いたのですが。

ルイ・マル そう、彼はわたしたちよりもずっと年上でした。『死刑台のエレベーター』のときはわたしが二十五歳。彼は四十歳以上でした。その後、彼はフランス最高のキャメラマンになった。「あんたとはもういっしょに仕事ができないね。高すぎて!」などとわたしたちは冗談半分に言ったものですが、本当に最高額のキャメラマンになってしまった。ジャン=ピエール・メルヴィルもその後、大監督になり、アラン・ドロン主演の『サムライ』とか『仁義』といった大作にはアンリ・ドカを使ったけれども、ヌーヴェル・ヴァーグの低予算映画では使いきれなくなってしまった。わたしの場合も、ブリジット・バルドーやジャン=ポール・ベルモンドのようなスターが出た映画にはアンリ・ドカを使うことができた。『私生活』とか『ビバ!マリア』とか『パリの大泥棒』とか。アンリ・ドカは撮影監督としてアメリカ映画もたくさんやっています。たしかに大キャメラマンになったのですが、しかし何かが失われてしまったような気もします。『死刑台のエレベーター』のころの彼はすばらしかった。どんなことでもやってみようという実験精神を持っていた。
(引用―山田宏一著 平凡社刊「わがフランス映画誌」より)


上の画像はインタビューに出てくる『賭博師ボブ』のピガール界隈のワンシーンで、私が付け加えたものです。
インタビューではこの後、アンリ・ドカが、『死刑台のエレベーター』において、イーストマントライⅩ(エックス)という新しい高感度フィルムを使ってライティングなしで夜のシーンを撮るという実験をしたこと、そして、『恋人たち』において、赤外線フィルムを使って擬似夜景を撮るという新たな実験をしたこと、などが語られています。
ヌーヴェル・ヴァーグという映画の新たな潮流と合致した、まさに実験精神旺盛だった頃のドカの姿が語られていますが、このルイ・マルのインタビューでむしろ私が気になるのは、後にドカがフランス「最高額のキャメラマン」になったということと、「しかし何かが失われてしまったような気もします」というドカの変化を暗示するようなマルの言葉です。

そのせいでしょうか、長い間、一枚岩のようなコラボレーションを誇っていたメルヴィルとドカの間にも、やがて不協和音が聞かれるようになります。

アンリ・ドカは、1915年7月31日、パリ近郊サン=ドゥニ生まれ。
戦前は写真・映画技術学校に通い、第二次世界大戦中には、空軍の映画班で撮影を担当します。
ジャン=ミヌールの下で短編記録映画や宣伝映画を演出および撮影し、1945年からは〈プチ=パリジャン〉の写真記者となります。(参考-エスクァイアマガジンジャパン刊「ヌーヴェル・ヴァーグの時代―1958‐1963」E/Mブックス)

メルヴィルとアンリ・ドカの出会いはメルヴィルの長編処女作『海の沈黙』に遡ります。
もともと、別のキャメラマンによって撮影は始められていましたが、メルヴィルと対立して首になり、紆余曲折あってドカが呼ばれることになります。

「かくして私はアンリ・ドカと出会った。感じがよくて内気で、とても知性に恵まれた青年で、そのうえ、映画のことでは私とセンスが同じだった。初日、私たちは一緒に仕事をして、実に気持ちがよかったね。二日目はこの上なく楽しかった。三日目からは、もう一丁あがりさ。私たちは実によく理解し合っていたから、撮影、編集、ダビング、整音とすべてを一緒にやったよ。」(引用―ルイ・ノゲイラ著 井上真希訳 晶文社刊「サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」より)

メルヴィルと出会った頃のことを語ったドカの貴重なインタビューを記載してみましょう。


 ジャン=ピエール・メルヴィル監督とはどのようにして出会ったのでしょうか?

 わたしは当時ジャン・ミヌールというコマーシャル映画のプロダクションで、コマーシャルやドキュメンタリーfa13d509.gifの短編を撮っていました。ある日、その会社の製作主任がわたしにこう言ったのです――ジャン=ピエール・メルヴィルという若い監督が自主製作で『海の沈黙』という長篇劇映画の撮影を始めたんだが、キャメラマンと喧嘩してしまい、撮影中断の状態になって困っている。どうだね、やってみる気はないかね?ただし、ギャラなしだが、とね。
 わたしはこの仕事に大いに興味を持ちました。原作はレジスタンス文学の最高傑作として知られたヴェルコールの小説です。それに、なによりも、長篇劇映画というのはぜひ撮ってみたかった。そんなわけで、メルヴィルと会い、いっしょに仕事をすることになった。1948年のことです。
 初の長篇劇映画の撮影ということで大いに張り切っていたところ、ひどい条件で、たとえばネガフィルムはエマルジョン・ナンバーがそろっていないものばかり。全部、メルヴィルがあちこちのプロダクションから払い下げてもらった残りフィルムの寄せ集めでした。しかも、フィルムの量は充分になく、ほとんどその日ぐらしの状態で、毎日スタッフのだれかがあちこちのプロダクションを駆けまわっては残りフィルムを寄せ集めてくるという始末です。こっちから50メートル、あっちから100メートルといったぐあいでした。こんな調子で、映画が完成するまでに1年もかかったのです。

 エマルジョン・ナンバーがそろってないネガフィルムでは、全体のトーンを合わせるのがたいへんだったのではありませんか?

 それで、全体をできるだけ暗いトーンにしたのです。明暗やコントラストのはっきりしない、薄明や薄暮のトーンですね。それが、たまたま、メルヴィルの「暗黒映画」(フィルム・ノワール)のムードにぴったりだったのです。ともかく、なにもかも手づくりという感じの仕事でした。

 思えば、メルヴィルこそヌーヴェル・ヴァーグのパイオニアだったわけですね。

 わたしたちがやった方法は資金不足でやむを得ず考えだしたことだったのですが、それをヌーヴェル・ヴァーグが受け継いで、ひとつの方法論として体系化したわけです。『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』は、ヌーヴェル・ヴァーグという言葉すらなかったころに作られた映画ですから、もしあえて呼ぶなら、「もうひとつの映画」(シネマ・パラレル)というか、要するに体制(システム)の外側の映画だったわけです。いっさいの制約なしに、法的な許可なんかとらずに、すべての映画的な文法や法則を無視して、撮ったのです。同じ原理をヌーヴェル・ヴァーグが採用したのだと言えます。
引用-山田宏一著 平凡社ライブラリー刊「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」より)

多くのメルヴィル作品の撮影監督を務めたフランスの名キャメラマン、アンリ・ドカ(Henri Decae 1915-1987)とメルヴィルの関係について、何回かに分けて書いてみたいと思います。
(以前はアンリ・ドカエと表記したこともありましたが、ドカに統一しようと思っています)

まず、ドカが撮影監督を務めたメルヴィル作品ですが、年代順に『海の沈黙』、『恐るべき子供たち』、『賭博師ボブ』、『モラン神父』、『フェルショー家の長男』、『サムライ』、『仁義』の7作品になります。
メルヴィルの監督した長編作品は全13作品ですから、その約半数を務めたことになります。
この中で一般的に多く知られている作品としては『恐るべき子供たち』、『サムライ』、『仁義』といったところになるでしょう。

image7.gifところで、私はこれまでドカの顔写真を見たことがほとんどありませんでした。
ここに紹介する写真は、クライテリオン盤DVD『仁義』の特典ディスクに収録されたルイ・ノゲイラのインタビューに出てくるドカの写真です。(クリックすると大きくなります)
今回調べてみて驚きましたが、ドカはメルヴィルよりも2歳年上です。(いつ頃の写真でしょうか・・・本や雑誌で他のドカの写真をご覧になった方はいらっしゃいますか?)

言うまでもなく、ドカはメルヴィル作品のみならず、といいますかむしろそれ以上に他の監督の作品で大きな成功を収め、フランスを代表するキャメラマンの一人となりました。
主だったフィルモグラフィーです。
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=539
50~60年代の活躍ぶりがなんといっても目を引きますが、中でも有名なのは、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』、『恋人たち』、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』、クロード・シャブロル監督の『いとこ同志』あたりでしょうか。
80年代になるとさすがに仕事の量がぐっと少なくなっていますが、それでも亡くなった年(87年)まで仕事をこなしています。
ドカは特にヌーヴェル・ヴァーグの監督たちによく起用されましたが、これはメルヴィルの『恐るべき子供たち』でのドカの撮影が彼らに高く評価されたためだと言われています。
シャブロルが『いとこ同志』の撮影において、『恐るべき子供たち』と同様の撮影方法をドカに求めたという話は有名です。

面白いのは『太陽がいっぱい』でメルヴィルよりも早くアラン・ドロンと一緒に仕事をしていることです。
ルネ・クレマン監督に高く評価されたドカは、『生きる歓び』、『危険がいっぱい』でも撮影監督を務め、ドロンとも大変親しくなったといいます。

山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』には、氏が70年代半ばにドカにインタビューした際のエピソードが出てきますが、『サムライ』以前からメルヴィルはドカに「ドロンに会わせてくれ」と頼んでいたということです。
しかし、二人のことをよく知っているドカは、メルヴィルとドロンでは上手くゆくはずがない、と考え、紹介する手はずを整えませんでした。

ところが、ついに『サムライ』でこの3人が一緒に仕事をすることになります。
結果的に素晴らしい作品となったことで、ドカはメルヴィルに「ほら、上手くいったじゃないか。もっと早く会わせてくれればよかったのに。」となじられたとのことですが、ドカとしては、(メルヴィルとドロンが上手くいったのは)何かが狂ったからだ、と考えていたとのことです。
つまり、メルヴィルとドロン、どちらかに何らかの妥協や変化があったから上手くいった、という意味と捉えればよろしいでしょうか。

山田氏の本には、ドカの言葉として『サムライ』以後メルヴィルは商売(ビジネス)のことばかり考えるようになったとあり、このドカの証言が、山田氏言うところの『サムライ』以後メルヴィルは通俗化した、堕落した、との認識にも重なります。

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メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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