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前回に続く

一分の隙もないナイアガラサウンドに満たされ、あまりに高い完成度を誇るA面に比べると、B面の5曲はそこまでの統一感、完成度はない。

しかし、B面の冒頭を飾る『流星ナイト』は、A面の聖子さんの声とは明らかに異なる、初期の声に近い声で歌われる佳曲。
この声を聴く気持ち良さはやはりこたえられない。

続く『黄昏はオレンジ・ライム』(作曲:鈴木茂)は聖子さんの声、アレンジ共に前作『Silhouette 〜シルエット〜』に入っていてもおかしくないような初期テイストの愛すべき作品。(事実、鈴木茂は『Silhouette 〜シルエット〜』のセッションにE・ギター奏者として参加している)

このアルバムでは若干毛色の違う『白いパラソル』(以前書いた記事)を挟んで、続く『雨のリゾート』は聖子さんの歌う喜びが聴き手に直接伝わるような、素晴らしい美声が堪能できる。
そして、深い余韻を残す歌の表現力が素晴らしい王道の聖子バラード『December Morning』でアルバムは幕を閉じる。

お分かりの通り、B面も内容的にはA面に全く引けを取らない
むしろ息苦しくなるくらい完成度の高いA面よりも、どこか開放感がありバラエティに富んだB面の方が好きだという意見があっても少しもおかしくない。
特に『流星ナイト』と『雨のリゾート』は今でもファンの間で人気は高い。
実際、聖子さんが伸び伸びと歌っているのはB面の方だろう。

結果的に、聖子さんの声の調子の決して良くなかった時期の録音にもかかわらず、このアルバムは信じられないくらい魅力的な美声で満たされることになった。
聖子マジックとしか言いようがない。

それと、今このアルバムを聴き通してみて驚くのは、A面とB面に思ったほど雰囲気の違いを感じないことだ。

この連載の1回目の記事で私はアルバム全曲を大滝が書いたようなイメージがあったと書いた。
つまりB面にもどことなく大滝の色を感じるのである。
その秘密はB面の『白いパラソル』(編曲:大村雅朗)以外の4曲のアレンジを担当した鈴木茂にあったのではないかと思う。

前述の通り、鈴木茂は大滝、松本隆と同じくはっぴいえんどの元メンバーであり、大滝の『A LONG VACATION』のセッションにも参加している。
いわば大滝の音楽性に精通している盟友だ。

ここからは私の推測になるが、鈴木がA面の大滝の楽曲、アレンジを見越して、B面の楽曲も大滝のそれに近いテイストのアレンジを施したのではないだろうか?(プロデューサーの意向もあったかもしれない)
いわば、鈴木の才能とセンスによって、A面とB面が分断せず、アルバムとしての統一感を辛うじて保ったとも考えられるのである。

このアルバムのクレジットを見ると、鈴木はミュージシャンとしてもこのアルバムのセッションに参加しており、なんと『白いパラソル』以外の全曲でE・ギターを弾いている
大滝の影に隠れて目立たないが、このアルバムの“影のMVP"は鈴木茂だと言えなくもないのである。

以上、アルバム『風立ちぬ』と周辺事情、当時の昔話についてダラダラと綴ってきた。

たった一枚のアルバムについて書くのにこんなに長くなるとは夢にも思わなかったが、それだけこのアルバムが私個人にとっても、聖子さんにとっても、おそらくは大滝を初めとするアルバムに携わった音楽家たちにとってもエポックメイキング的な存在感を放っているということではないかと思う。
この記事を書いている間、少なくとも10回以上はこのアルバムを聴いたが、まさに至福の時間であった。
このアルバムに携わったすべての人たちに感謝したい。

聖子さんの歴史上におけるアルバム『風立ちぬ』の位置づけとしては、楽曲的にも聖子さんの声質的にも、初期から次の段階に至るまでの過度期の作品と捉えるべきなのかもしれない。

といっても、もちろん中途半端な作品ということではない。
大滝詠一を始めとする当時の日本のポップス界の精鋭たちは、その才能の絶頂期にこのアルバムのために身を削り、最高の楽曲を提供した。
そして、19才の聖子さんは声の不調という悪条件を乗り越えながらも出来うる限りのパフォーマンスでそれに応えた。

最高の音楽がそこにあり、聖子さんがポテンシャルの高さを発揮すれば、結果は自ずと知れる。
だからこそこのアルバムは、今なお日本ポップス史上唯一無二の存在感を誇っているのだと思う。
(この項終わり)

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前回に続く
(この連載(?)の1回目全4回予定と書きましたが、全5回に訂正いたします 笑)

アルバム『風立ちぬ』が発売される頃には私の持っていた『A LONG VACATION』のLPは友人たちに借り回されてキズだらけになっていた。
まもなく『風立ちぬ』のLPも同じ運命を辿ることになるのだが・・・。

発売されたアルバム『風立ちぬ』を聴いてまず驚いたことは、やはり聖子さんの声がこれまでよりハスキーに感じられたことだった。
そのことは先行シングル『風立ちぬ』でもすでに表れてはいたが、アルバム(特に大滝が担当したA面)を通して聴くと、以前との声の変化は明らかであった。

このアルバムがレコーディングされた時期は1981年8月、9月だというが、もしかしたらB面よりA面の方が後の時期にレコーディングされたのかもしれない。
どちらにせよ、聖子さんがもっともハードスケジュールだった時期(夏にも全国ツアーを行っている)にアルバムがレコーディングされたことは間違いない。

過酷なスケジュールが祟り、体調を崩して歌番組を時折休むようになったのもこの時期ではなかったか。
睡眠時間が一日平均2~3時間、コンサートは昼夜2回公演、その合間にテレビの歌番組出演、ラジオの収録、雑誌の取材、そしてレコーディングである。
いくら若いといっても無理がある。(もちろん聖子さん本人には責任がない)
声が全然出なくなったこともあったらしい。
それらの悪条件が重なり、81年半ば頃を境に聖子さんの声質は明らかに変化した

デビュー当時の聖子さんの歌はまさにパワーボーカルとでも言いたくなるよう圧倒的な声量で高音から低音まで声が出切っていた。
とりわけ印象的だったのはどこまでも伸びるハイトーンボイスだが、アルトのような太い声もそれに劣らず魅力的だった。

それが、この『風立ちぬ』のレコーディングの頃から声はハスキーになり、次第に語りかけるような歌い方が多くなっていく。
俗に言うキャンディボイスへの声質の変化である。

今ではこの時期の聖子さんの代名詞ともいえるキャンディボイスだが、ある意味、苦肉の策の結果とも言える。
デビュー時の圧倒的な声は永久に失われてしまった結果、キャンディボイス以後の聖子さんは表現力にますます磨きをかけていくことになる。
そして、その表現力こそが聖子さんの芸術性の特質となっていく。

キャンディボイスの魅力をさっそく発揮したのが、アルバム『風立ちぬ』のA面5曲であり、次のシングル『赤いスイートピー』(82年1月21日発売)であったと思う。
(私の知る限りでは当時キャンディボイスなんて言葉、誰も使ってなかったような気がするが、いつから言われるようになったのだろう?)

それにしても、当時リアルタイムで聴いたアルバム『風立ちぬ』の素晴らしさにはやはり驚かされた。
なにしろ個々の楽曲の完成度が凄かった。
それ以前の3枚のアルバムももちろん良かったし好きだったが、それらとは別格の出来栄えだと感じた。
のちに聖子さんのアルバムはこのレベルの出来栄えは当たり前のようになるが、まだ後の傑作『Pineapple』(82年)も『ユートピア』(83年)も世に出ていない頃の話である。
シングル『風立ちぬ』への不満も、このアルバムを耳にした途端、どこかへ消し飛んでしまったように思う。

アルバムは『冬の妖精』から幕を開けるが、俗にナイアガラサウンドと呼ばれる大滝独特の音の壁がビッシリと敷き詰められており、そこに聖子さんのハスキーな声が不思議なくらいピタリとハマっていた。(是非ともヘッドフォンかイヤフォンで聴いてみて欲しい)
間奏のギターソロ(鈴木茂)は、音といい、フレージングといい、まさにナイアガラサウンドの真骨頂。

一千一秒物語』は2000年代になってもコンサートで歌われることの多い聖子スタンダードの傑作の一つだし、『いちご畑でつかまえて』は超難曲にして、とりわけ大滝カラーの強い楽曲。
およそアイドルの楽曲とは思えないほど遊び心のある作品である。(♪Bidan Bidan Bidubidubidan♪のキャンディボイスが素晴らしい!)

ただ、私はこのところ何度かこのアルバムを聴き返してみて、一番心惹かれたのが『ガラスの入江』であった。
これは凄い。
聖子さんの当時のシンガーとしての実力をフルに発揮した名バラードだ。
このような引きずるようなテンポのバラードは歌いこなすのが相当に難しいはずだが、聖子さんの卓越したリズム感は、見事に歌声をメロディに乗せてみせる。
一般的にはあまり指摘されないことかもしれないが、当時も今も聖子さんという人はリズム感が抜群に優れた人で、だからこそあの声がメロディに乗った時、素晴らしく魅力的に響くのだと思う。
次回に続く

前回に続く

先行シングルでもありアルバムのタイトルトラックでもあった『風立ちぬ』を当時好きになれなかった理由は一体なんだったのか?

いまだに自分でもハッキリとは分からないのだが、まず、いかにも大滝詠一らしいメロディラインに妙な違和感を感じたのである。
例えば♪今は秋♪の箇所。
また♪すみれひまわりフリージア♪の箇所。

おそらくは大滝自身が歌っていればそれほど違和感は感じなかったのではないかと思う。
いかにも大滝の声のイメージのメロディラインだからだ。
それが聖子さんが歌った途端、当時の聖子さんのイメージや音楽性との乖離が表面化したのではないか。
この曲をさんざん聴いた今ならすっと聴き流してしまうが、当時は聴いていてどうにも落ち着かなかった。

また、アレンジが大仰すぎるように感じられたことも好きになれなかった理由の一つかもしれない。
ストリングスアレンジ井上鑑)があまりにゴージャス過ぎるというか、派手派手過ぎる印象が拭えなかったのである。
派手派手といえば、『夏の扉』も充分派手なアレンジだったが、あれは当時の聖子さんの明るく快活なイメージにほぼ同化していたから違和感はなかった。
しかし、『風立ちぬ』のゴージャスなアレンジは当時のまだ10代だった聖子さんのイメージとはどうも合わない気がしてならなかったのだ。

私は歌詞にも座り心地の悪さを感じていた。
何よりタイトルからして文語体の、およそ聖子さんらしからぬ言葉であり、特にサビの♪今日から私は心の旅人♪という言葉は当時の聖子さんにはあまりにも大人びて響いた気がした。

そう、ぶっちゃけて言ってしまえば、私にとって『風立ちぬ』は当時の聖子さんにはやけに“オバさんっぽい曲"のように感じられたのだ。



最近になって分かったことだが、聖子さん自身、曲に違和感を感じ、『良い曲ですが私には合わないのでは?』と最初は歌うことに抵抗感を示したらしい。
おそらくは聖子さんも分かっていたのだ。
ところが、いざ歌ってみると、聖子さんの天才的表現力が光る曲に仕上がったのは流石である。

世間的によく指摘されるところは♪SAYONARA SAYONARA SAYONARA♪の部分がそれぞれ一言一言歌い方が異なるということだろう。
忘れたい 忘れない♪のところの表現力も凄い。
実際のところ、大滝の歌唱指導は聖子さんがレコーディングに通うのがイヤになるくらい厳しかったようで、ここでの表現力はその指導の賜物かもしれないが、実際に出来てしまう聖子さんが凄い。

それにこの曲のスケール感は只事ではない。
しかも、聖子さんの歌はとても10代の少女の歌とは思えないくらい実に堂々としている。
なんというか歌の佇まいが立派なのである。

これはもしかしたらとんでもなく凄い曲なのではないか?と気づき始めたのは、初めてこの曲を聴いてから30年経ってからだった。
まだ子供だった当時の私にはとてもそこまで考えが及ばなかった。
そして、つい数年前までその頃の感性をずっと引きずってしまっていた。
当時はともかく、30年後まで感性の変わらなかった私は大バカ者である。

シングル発売からちょうど2週間後の1981年10月21日、アルバム『風立ちぬ』は発売される。
次回に続く

前回に続く

よく知られていることだが、聖子さんのデビューの年(80年)、その楽曲はシングル、アルバム共にほとんどが作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎というコンビで作られていた。

しかし、翌年の4枚目のシングル『チェリーブラッサム』(81年1月21日発売)から作曲に財津和夫が参入し、81年5月21日発売の3枚目のアルバム『Silhouette 〜シルエット〜』では収録曲の半数ずつを小田と財津が分け合うことになる。

また、『Silhouette 〜シルエット〜』収録曲の『白い貝のブローチ』の作詞を松本隆が担当したことがきっかけとなり、6枚目のシングル『白いパラソル』(81年7月21日発売)からは松本隆がほとんどの作詞を担当するようになる。

つまり、作家陣の大幅な入替えという意味でも、聖子さんにとってアルバム『風立ちぬ』は大きな転機となったのである。

大滝詠一の起用は松本隆人脈であることは間違いない。
二人は言うまでもなく伝説的バンドはっぴいえんどの元メンバーであり、大滝の『A LONG VACATION』の作詞もほとんどが松本隆によるものだった。

それだけでなく、このアルバムB面の『黄昏はオレンジ・ライム』の作曲と4曲の編曲を担当したのは同じくはっぴいえんどの元メンバーである鈴木茂、『雨のリゾート』の作曲には翌年『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』で大滝と組むことになる杉真理、先行シングル『白いパラソル』を初め3曲の作曲を提供したチューリップの財津和夫と、一アイドルのアルバムとは思えないほど日本ポップス界の精鋭陣(今となっては重鎮だ)が揃ったのである。

もちろん、作家陣にビッグネームを揃えたから素晴らしい作品が出来上がるとは限らない。
特にアルバムの半数を占める大滝の楽曲が聖子さんに合わない可能性もあるし、聖子さんが歌いこなせず、失敗に終わる可能性もある。
すでに定評あった三浦=小田作品でこれまで通りのアルバムを作っていた方が、制作する側からしたら安全だったはずだ。
当時、聖子さんの人気が落ちていたわけでもなく、特に方向転換が必要な時期だったわけでもない。

にもかかわらず、このようなリスキーなアルバムをあえて作ったというのは、聖子さんの能力、可能性に心から惚れこみ、その可能性を最大限に発揮したアルバムを作ろうというスタッフの気概以外の何ものでもなかったろう。

失敗のリスクを恐れず、この路線に舵を切った若松宗雄プロデューサーを始めとするスタッフの英断に心から拍手を送りたい気分である。(一方で三浦=小田作品を歌う聖子さんをもう少し聴いていたかったというファン心理も少なからずある。見果てぬ夢だが・・・。)

1981年10月7日、まずアルバムの発売前にタイトル曲『風立ちぬ』が先行シングルとして発売された。



私は発売前からラジオで聴いていたのだが、正直言って、それまでの聖子さんの楽曲とは全く違う、異様な曲に感じられた。
前述のように、すでに『A LONG VACATION』を聴き、大滝の楽曲に免疫の出来ていた私ですらそう感じたのだから、世の聖子ファンにはかなりの困惑があったのではないかと想像する。
実のところ、私自身この曲を本当に好きになったのはここ数年である
それまで30年に渡ってずっと好きになれなかった、いや、なりきれなかった・・・。
以後続く

81年10月21日に発売された松田聖子4枚目のアルバム『風立ちぬ』。

もはや語り尽くされた感のある名盤中の名盤であり、私が付け加えることなど何もないが、先年亡くなった大滝詠一を今さらながら追悼する意味合いも込めて、私なりに発売当時のことを振り返ってみたい。

このアルバム、CDとなった現在では分かりにくいかもしれないが、アルバムの半数に及ぶ前半5曲(A面)の作曲、編曲を大滝詠一が担当している。(編曲者名の多羅尾伴内は大滝の別名)

B面の5曲は大滝以外の作曲者(財津和夫鈴木茂杉真理)によるものであり、A面に劣らぬ内容を誇るが、大滝の担当したA面のインパクトがあまりにも強く、まるで大滝がアルバム全曲書いたようなイメージすらあった。

大滝詠一といえば、同年に発表した『ロング・バケイションA LONG VACATION』(81年)が日本ポップス史上に残る超名盤として知られているが、私の人生における数少ない誇れることの一つが『A LONG VACATION』をリアルタイムで聴いていたことである。

81年の夏、行きつけのレコード店にいつもオリコンのチャート表が掲示されていたのだが、アルバムチャートで毎週のように3位前後に付けていたのが『A LONG VACATION』だった。

もちろん、大滝詠一なる人物など知る由もないし、音も聴いたこともなかったのだが、ジャケットのオシャレなイラスト(永井博デザイン)に子供心に惹かれてLPを買ったのだった。
チャート上位にずっとつけているくらいだから、内容も悪くないに違いないという期待もあった。

ちなみに当時のアルバムチャートの1位はずっと寺尾聰の『Reflections』だったが、そちらには全く興味がなかった。
それどころか、『Reflections』のせいで聖子さんのサードアルバム『Silhouette 〜シルエット〜』は2位どまりで1位になれなかった。
興味がないどころか憎んでいたといっていい。

それはともかく、『A LONG VACATION』を聴いて、すぐに気に入ったのは言うまでもない。
とにかく音の良さにびっくりした。
レコードの音質もそうだが、なんというか聞こえてくる楽器の音の良さに驚いたのである。
もちろん、楽曲も素晴らしかった。

7月か8月くらいに買ったということもあって(発売は3月)、特にリゾート気分満載のA面は時期的にもピッタリだった。
君は天然色』の冒頭のピアノの音からあのイントロが始まる高揚感、あのサビの盛り上がり、『カナリア諸島にて』の歌い出し♪薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて♪という歌詞の洗練されたイメージなど、初めて聴いた当時の記憶はいまだ鮮明である。

B面も、特に『雨のウェンズデイ』と『恋するカレン』は最高だった。
雨のウェンズデイ』は個人的にいまだにフェイヴァリット・ソングの一つである。
 


すっかり大滝ファンになった私は旧譜の『NIAGARA MOON』『NIAGARA CALENDAR』も買って聴いたし、以後は『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』、インスト盤『NIAGARA SONG BOOK』(共に82年)、『EACH TIME』(84年)と聴いていくことになる。

共に大滝ファンだった友人は『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』を聴いて佐野元春のファンになったが、私自身は大滝の他のアルバムに『A LONG VACATION』に匹敵する魅力を見出すことができず、次第に大滝の音楽から離れていった。

前置きが長くなったが、聖子さんのアルバム『風立ちぬ』は『A LONG VACATION』と同じ年(81年)、それもたった半年後に発表されているのである。
この頃の大滝の旺盛な創作力に驚くほかない。
それにしても、当時人気絶頂のアイドル、聖子さんの曲を『A LONG VACATION』の大滝詠一が書くことになるとは!
この二人が繋がることになるとは『A LONG VACATION』を聴いた当初は考えもしなかった。

結果的に大滝はアルバムの半数、5曲の楽曲を書く。
そして、その5曲を含むこのアルバムはまさしく日本音楽史上に残る金字塔となったのだ。
以後続く全4回予定

松田聖子、初期の名曲『Only My Love』。

80年代前半に聖子ファンだった者にとっては極めて重要な楽曲である。
つまりは、聖子さんの歴史の中でも最重要曲の一つである。
アンセムだと言ってもいい。

この曲は80年12月1日に発売されたセカンド・アルバム『North Wind』に収録されており、シングル・カットはされていない。
しかし、当時のコンサートではいつもフィナーレに歌われる重要な曲だったし、聖子さんのDJによるラジオ番組『夢で逢えたら』(ニッポン放送)のオープニングにも使われていた。
この曲のイントロがかかると“松田聖子 夢で 逢えたら”という聖子さんの声がつい聞こえてきてしまうという人も多いはずだ。

ところで、当時のラジオというのは今では考えられないくらい重要な存在だった。
テレビで毎週歌番組があった時代ではあるが、当時は人気アイドルの多くは自分のラジオ番組を持っており、その本音やファンに対する直接的なトークが聞けるのはラジオだけと言ってよかった。

夢で逢えたら』も聖子さんの飾らない素の人柄が自然に出た好番組で、私たちはこれを聴いてますます聖子ファンになったものだ。
毎週日曜日22時~22時半という放送時間帯は、このラジオを聞いていた人たちにとっては決して忘れられない時間帯である。

調べてみたら『夢で逢えたら』は81年4月から83年3月までの放送だったということだが、たった2年間の放送だったとはとても信じられない。
それくらい番組のインパクトが強く、もっと長く放送されていたような印象があるからだ。

このラジオ番組、今ならYouTubeで数回分聞くことができるが、若い頃の聖子さんの話し声のハスキーさに驚く。
もっとも、近年のコンサートでの聖子さんのトークは、年齢を経たわりには声にさほどハスキーな印象はなく、これも聖子七不思議の一つである。

1983年3月27日 ラジオ『松田聖子 夢で逢えたら』 最終回前半


言うまでもなく、番組の冒頭でかかるのが『Only My Love』のオリジナル音源。
皆様にご心配をおかけしました、と話しているのは沖縄でのファン襲撃事件のことだろうか。
沖縄の事件は3月28日だったはずで、そうなると日時が合わなくなるが・・・。

それはともかく、『Only My Love』が数ある聖子さんの名曲の中でも最も感動的な名曲であることは間違いない。
実際、聖子さんにはその手の名曲が多すぎるが、これは全キャリアを通じて別格の地位を占める楽曲であろう。


前述のように80年代前半のコンサートではいつもフィナーレに歌われる重要な曲であり、会場はファンの大合唱に満たされた。
歌詞も素晴らしく、“あなたと今この道 歩いてゆきたい”の“あなた”とは、聖子さんにとってはファンのことであり、ファンにとっては聖子さんのことなのだ。
もっとも、聖子さんが特にそう言ったというわけではないが、この歌がコンサートで歌われる瞬間、歌詞の意味合いがそこまで昇華される(?)のを確かに感じるのだ。

そして、私が特に好きなところは“庭に咲いたわ 小さな花 あざやかな色で 私の中 眠っていた愛に 火を付けてゆく”の件だ。
オリジナル音源(レコード)における“”の歌い方、そして、“あざやかな”の“”の歌い方が素晴らしすぎる。

Only My Love』のレコードにおけるオリジナルキーは高い
これは皮肉にもハイトーンを誇っていた当時の聖子さん自身を苦しめたようで、分かっている限りでは82年にはこの曲を歌う場合、キーを下げたようだ。
思えば、ただでさえキーが高くて苦しいのに、コンサートなどで20曲前後歌った後、フィナーレにこのオリジナルキーは殺人的だ。
声を守るためにもキーを下げたのは当然の処置だったろう。

オリジナルキーで歌った動画を一つだけ見つけたが、81年の殺人スケジュールで声を痛めている頃で、声が残念ながら出きっておらず、痛々しい。
しかし、当時の聖子さんがいかに真摯に歌に取り組んでいたかを示す貴重な動画なので紹介。(ニコニコ動画に飛びます)



次に、キーを落とした後の82年12月25日クリスマスクイーン伝説的な初の武道館コンサート)の動画を。


途中から登場する蜘蛛の巣みたいなセットはともかく(笑)、キーがどうだとかこうだとか言ってる場合ではないほど感動的な動画である。
ベタな表現だが、これを観ると『Only My Love』とは何より聖子さんとファンの心を一つにする歌であることが認識できるはずだ。

ちなみに、初武道館から31年後の2013年7月7日に行われた聖子さんの武道館100回記念コンサートでは、アンコールでこのクリスマスクイーンの映像をバックに現在の聖子さんが『Only My Love』を歌うという、初期のファンには堪らないシーンがあった。
聖子さんとファン双方にとって、この曲は今もなお現在進行形の歌なのである。

81年、松田聖子6枚目のシングル『白いパラソル』。

若い頃の聖子さんの動画がネットで観られるのは本当に素晴らしい。
今ネットで聖子さんの動画を見ると、まずその歌声と歌唱に圧倒され、当時の彼女がいかに凄いシンガーであったかを今さらながら知り愕然とするのである。
私も当時子供だったから、無理がないといえば無理がないのだが、聖子さんがどれだけ偉大なシンガーであったか当時は全くと言ってよいほど理解していなかったのだ。

信じられないくらい伸びのある歌声、怪物的な表現力、異常なまでの可愛さ、そして見る者の心を一瞬にして明るくしてしまう天性のスター性・・・。
たとえ音楽的には完璧でなくとも、その声や音程の揺らぎこそが彼女の芸術性の表出そのものであったのではないかと今となっては思えてしまう。
まさしく彼女は奇跡のアイドルであった。

そして『白いパラソル』。
発表されてから34年、これまでの人生で一体何度聴いたことだろう。
下手したら500回くらいは聴いているかもしれない。
しかし、全く飽きることがない。
それどころか、今でも時には涙が出そうになるくらい感動する。
いったいこの音楽の魔力は何なのだろうと思う。
少なくともこの曲を聴いている時は他に何もいらない。

ここに紹介する動画は、83年に放送された伝説的番組【ザ・スター 振り向けば・・・聖子】からのもので、伴奏こそレコードだが、生歌でフルコーラス歌われており、聖子さんのパフォーマンスも歌、髪型や衣装、表情といったビジュアル、“神の左手”が炸裂する振付、いずれも最高に魅力的である。

それにしても、この曲に限らないが、当時の聖子さんのテレビ出演がまとめられてDVD化なり、ブルーレイ化されないものだろうか。
一聖子ファンの切なる願いである。

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マサヤ
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趣味:
フランス映画、ジャズ
自己紹介:
フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品のファンサイト附属のブログです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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