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今日、7月31日はアンリ・ドカの誕生日です。
ドカは87年に亡くなっていますが、1915年生まれですので、生きていれば92才となるはずです。
メルヴィルとアンリ・ドカの長年の関係は『仁義』の撮影において“ケンカ別れ”という形で事実上の破局を迎えます。
この件に関して今回、次回と簡単な検証をしてみたいと思うのですが、二人のどちらかに白黒をつけるのが目的ではありません。
事実、それだけの材料がありませんし、本当のところは当事者同士にしかわからないと思います。
しかし、このことは、二人の関係を探っていく中で決して避けられない問題ですし、二人が当時それぞれ抱えていた問題を炙り出すキッカケの一つにもなると思います。
まずは、メルヴィルがこのことについて述べている、ルイ・ノゲイラ著『サムライ』の部分を引用してみます。
インタビューの時期は『仁義』撮影後から公開前の間、つまり1970年の半ば頃と思われます。
私は完璧主義者になったが、同時に、二十五年来一緒に仕事をしている人々は次第に完璧主義でなくなっている。言い換えれば、この二十五年の経験から、二十五年前には、フランスの仲間うちには非常に有能な人々がいたのに、その人々が著しく有能でなくなったという印象があるんだ。「あの人々」と言おう。現在、私の知らない若手がいることは疑いがないし、録音技師のことも、撮影監督や撮影技師のことも念頭にあるんだからな・・・・・・。
(略)
(『仁義』の撮影が延びたのは)私と一緒に仕事をした人間たち、私とともにセットにいた男女が、まったくその任に堪えなかったからだ。それを口にするのはいっそうつらいんだが――いつか本に書かれ、いわば決定的になることがわかっているので――私がかつて大好きで、もっとも、ずっと好きなんだが、最初に共同作業をした男が一緒だっただけにね。年代的なことだけじゃない。その男は私の「第一の」共同作業の相手、つまり、質においても、緊密な結びつきにおいても、アイディアや技術、研究の共犯者としても、全員のなかで一番の人間だったんだ。
(略)
自分が指揮していたスタッフとの関係の苛酷さ、あの集団に痛めつけられ、打ちのめされるという絶え間ない拒絶に、どれだけ苦労したことか。彼らは浜辺の水母(くらげ)みたいなものだよ。水母は人が動かさない限り動かないだろう?(略)(私は)まったく超人的な努力と引き換えにあのスタッフを動かしたんだ。
(略)
あのプロ意識や自覚の欠如は、全カットについて明らかだった。
これから私が一緒に仕事をするのは、私生活より仕事(メチエ)を優先させる人間になるだろうと思う。
(引用―ルイ・ノゲイラ著 井上真希訳 晶文社刊「サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」より、画像はクライテリオン盤DVD『仁義』特典ディスクより、『仁義』の撮影風景)
名指しこそされていませんが、メルヴィルの念頭にあるのがアンリ・ドカのことであるのは明白です。(ちなみに『仁義』の記録係はドカの奥方ジャクリーヌ・ドカ)
もちろん、ドカ一人だけでなく、『仁義』に携わったほとんどのスタッフに向けられた批判であるわけですが。(本の中で、小道具係だけが例外だったとメルヴィルは語っています)
次に、クライテリオン盤DVD『仁義』に収録されている、ルイ・ノゲイラのインタビューから二人の関係について述べている部分を翻訳し、簡単に要約してみます。(インタビューの時期は2003年、画像もその時のもの)
『仁義』の撮影時、メルヴィルは彼にとっての“一番”の協力者と一緒でした。
“一番”というよりは、メルヴィル言うところの“第一の”共犯者ともいえるその人物は、処女作『海の沈黙』を共に作ったアンリ・ドカのことです。
同時にドカはメルヴィルに最も近い人物でもありました。
彼らが行った創造的な試みはフランス映画に新たな発展と活力を与えました。
そして、それは“ヌーヴェル・ヴァーグ”となった。
“ヌーヴェル・ヴァーグ”の生みの親が誰かを問うならば、監督はジャン=ピエール・メルヴィル、キャメラマンはアンリ・ドカだと言えるでしょう。
この二人がフランス映画を根こそぎ変えたのです。
ところが、二人の関係は『仁義』では上手くいかず、メルヴィルは失望してしまった。
その頃、ドカは映画界では名士といえるほどの有名人になっていました。
さまざまな名監督と仕事をこなし、外国の監督がパリに来ると、一緒に仕事をしたいキャメラマンとしてまず名前が挙がるのがドカだったのです。
しかし、その頃、ドカは年老いて疲労が蓄積していた。
また、ドカをサポートする撮影スタッフも、ほとんど同様でした。
当時、メルヴィルが他の映画監督たちと同様にモノクロの映画を撮りたがっていたのは明らかだったけれども、メルヴィルの場合、少々事情が違っていた。
彼は、とてもくすんだカラーの映像を撮りたかった。
とてもぼやけた、あいまいな色のね。
ただ、ひとつの色の要素がわずかに強く、それが映画が実際にはカラーであるという証拠となっているというような。
だからこそ、メルヴィルには、あえてカラーの映画を撮りたいという願望があったんですね。
これには、自らすすんでリスクを犯す勇気のある撮影監督が必要です。
ところが、メルヴィルにとってドカはもはやそういうキャメラマンではなかったのです。
この連載の“その2”で紹介したルイ・マルのインタビューを憶えてらっしゃるでしょうか。
そこにはドカのことを「たしかに大キャメラマンになったのですが、しかし何かが失われてしまったような気もします。『死刑台のエレベーター』のころの彼はすばらしかった。どんなことでもやってみようという実験精神を持っていた。」と評した言葉がありました。
柔らかい言い回しですが、これは、後にはドカに実験精神がなくなったと言っているようなものです。
今回紹介したメルヴィルとノゲイラのインタビューは、このルイ・マルの言葉を裏付けているような気がします。
せっかくのドカの誕生日にドカ批判の文章ばかり打ってしまって少々気が引けますが・・・。
次回は、前回紹介した『キネマ旬報』のドカのインタビューから、この問題に触れる部分を紹介したいと思います。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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