[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
1970年9月11日放送のインタビュー。
クライテリオン盤DVD『サムライ』の特典映像に収録されているジャン=ピエール・メルヴィル監督のインタビューを翻訳して3回に分けて紹介します。
これは『サムライ』のDVDに収録された映像ですが、インタビューの時期は『仁義』の撮影から公開までの間に撮られたと思われ、ちょうどルイ・ノゲイラ著『サムライ』のインタビュー時期とも重なります。
内容から判断しますに、インタビュアーがおそらくは映画監督を志している若い女性で、そのせいか、聞いている内容は基本的なことが多いのですが、メルヴィルは、はぐらかさずに真面目に答えている様子が映像からもよく伝わってきます。
インタビューの場所は、メルヴィルのオフィス、スタジオの焼け跡の二つで、番組はそれぞれの場所でのインタビューを編集したものです。
メルヴィルのデスクの電話が鳴る。
ちょっと失礼。(とメルヴィルが受話器を取る)
アロー。はい。失礼ですが、どなたにに電話されているんですか?
あなたはGobelins2162に電話すべきですよ。
失礼します。
問 映画は重要ですか?
メルヴィル ああ。とても重要だよ。
誰にとってもそうだが、特に私にとってはそうだと認めるよ。
私の人生であり、私の職業でもある。
最も重要なことだな。
6歳の誕生日に、クランクを回して撮影するパテベビーのキャメラを買ってもらったんだ。
1923年のことだよ。
それが、いわば映画監督としてのデビューであり、人生を決めたんだと思う。
私の映画への愛はトーキーと共に始まったよ。
1929年か30年ごろのことだ。
初めてスクリーンから言葉を聞いたのは、ヴァン・ダイクとフラハティの『南海の白影』だった。
モンテ・ブルーが言ったんだ。“文明だ!文明だ!”とね。
それが私が映画から言葉を聞いた最初だったよ。
まさにその瞬間、私は映画に猛烈に恋したんだ。
問 あなたはまず何をしましたか?
メルヴィル 『海の沈黙』を製作、監督したよ。
問 どのように?突然にですか?
メルヴィル いや。
何年もそのことを考えていたから、完璧に準備はしてたよ。
35ミリのフィルムのストックを買って、400フィートのDebrieのキャメラに詰込んだ時には私はすでにプロになっていたと思う。
技術的なレベルにおいては、もう学ぶ余地がなかったんだ。
私が学ぶ必要があったのは、映画を製作するという方法だけだった。
それは技術的な見地を知ることとは別物だからね。
問 あなたは自分自身をプロデュースしたのですか?
メルヴィル 大変だったけど、やり遂げたよ。
お金を得ると、フィルムを買いにいき、撮影したもんさ。
思うに、君の監督する最初の映画は、君自身の一命をかけて作られるべきだよ。
問 ここはあなたの撮影所ですか?
メルヴィル 以前はね。(笑)
今はもうほとんど残っていない。スケートリンクみたいなもんだな。
1967年6月29日に焼けたんだ。
それまでは全くもって素晴らしい撮影所だった。
午前3時にベットから起き出して、セットに来て、夜の静けさの中、その日の撮影の準備を一人ですることもできたしね。
仕事をする環境としては最高だったな。
問 “王国”を持つことはあなたにとって重要ですか?
メルヴィル 私は“王国”とは呼びたくないな。
むしろ、職人の仕事場といいたいね。
私は職人だし、他の店よりも自分の店の方がよく働けるのさ。
問 再建したら、あなたは他の場所でなく、ここに住みますか?
メルヴィル きっとね。
実際、長い間そうしてきたしね。
1953年から1967年までだ。
14年間、私はほとんど他には足を伸ばさなかったよ。
ここで撮影が終わったばかりの『仁義』を編集中のメルヴィルの様子が流れる。
編集中の場面は、コーレイが早朝リコのアパートを訪れ、金を脅し取る場面である。(続く)
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
リンク、コメント、TB等はご自由にどうぞ。