[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ゴダール監督の『女と男のいる舗道』(62年。『VIVRE SA VIE』)を観ました。
12のエピソードからなる、アンナ・カリーナ演じる娼婦ナナを主人公とした物語ですが、この作品を観たのは数年ぶりです。
監督:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サディ・レボ、ブリス・パラン、アンドレ・S・ラバルト
この作品のDVDでは、私はシネフィル・イマジカから以前出ていたものを所有していますが、現在はハピネット・ピクチャーズからもデジタル・ニューマスター版と銘打ったDVDが出ています。
ハピネット・ピクチャーズ盤は未見なので比べることはできませんが、久々にイマジカ盤を観てみたところ、特に画質の上での不満は感じませんでした。
イマジカ盤、ハピネット盤、どちらもPAL変換マスターを使用しているそうです。
ちなみに、DVDのパッケージのデザインはハピネット盤の方がずっと魅力的ですが。
登場人物が背中を向けたまま顔を見せずに会話する冒頭シーンから、いかにもゴダールらしい個性が光る作品ですが、実は、当時カリーナが流産したのをキッカケにゴダールとの仲が上手く行かなくなっており、カリーナが自殺未遂を企てたり、ゴダールは気がおかしくなったりと大変なトラブルの中、撮影された作品だとのことです。
確かに、他のゴダール×カリーナ作品に比べて、暗めの作品であることは事実でしょうが、それでもこの作品のカリーナは、ボブスタイルの髪型もよく似合って魅力的です。
なんだかんだいって、個人的には、ビリヤード場でルグランの音楽に合わせて明るく踊るシーンが一番好きかもしれませんが。
せっかくのミシェル・ルグランの音楽も映画全体としてはほんの少ししか使用されておらず(それでも印象は強い!)、静寂の多い、淡々としたトーンの映画ですが、ところどころに深い味わいのあるシーンに富んでいます。
なかでも、私が好きなのは、先に挙げたビリヤード場のシーンの他に、哲学者のブリス・パランとカリーナの哲学的な対話のシーンです。
正直なところ、話の内容は私の頭ではほとんど理解不能ですが、即興によるという二人の対話が妙にリアリティがあり、心惹かれるシーンです。
あと、『裁かるるジャンヌ』を観ながらカリーナが涙を流すシーンももちろん印象的ですが、シャンゼリゼ大通りの大きな写真がバックのカフェで、就職願いの手紙の文面を書くところを丁寧に写したりとか、カリーナが身長を自分の手の大きさを使って計ったりするシーンはいかにもゴダールらしいシーンと言えるでしょう。
ラウル・クタールの撮影も、あえてカリーナを画面の中心から逸らして映し出すなど、ちょっと変わったカメラワークが目に付きます。
そして、今回観直してみて初めて気づいたのですが、ラストでカリーナが車で連れてゆかれる場所は、パリ13区ジェンネル通りのメルヴィルの撮影スタジオのすぐそばのようなのです。
建物に「RESTAURANT DES STUDIOS」と表示がありますが、これは『仁義』のCriterion盤の特典映像に収録されたスタジオ近くの映像と全く同じ場所なのです。
ちなみに、上の画像が『女と男のいる舗道』のワンシーン、下の画像が『仁義』のCriterion盤の特典映像に収録された映像のワンシーンですが、それぞれ1962年、1970年と時代も異なりますが、建物は間違いなく同じです。
まぁ、こんなことを発見して喜んでいるのは私ぐらいでしょうが…。
実際この作品を観ていて、メルヴィルの影を感じることはほとんどありませんが、こんなところにメルヴィルとゴダールの当時の親密な関係を感じることができて、ちょっと嬉しかったりしました。
そんなこんなで、先日、たまたまリュミエール叢書から出ている「ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967」を本屋で立ち読みしていましたら、その中に61年のゴダールとアンナ・カリーナの結婚式の写真が掲載されていました。
二人とも実に幸せそうな良い写真なのですが、よく見ると、その写真には、メルヴィルとプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールも、二人と一緒に写っていました。
噂によると、メルヴィルが二人の結婚式の仲人を務めたとのことでしたが、その証拠となる貴重な写真です。
値が張る本ですので、購入は見送りましたが、内容もかなり面白そうでしたので、いつかは手に入れたい本でした。
http://www.sensesofcinema.com/contents/8/46/charles-bitsch-interview.html
「ジャン=ピエール・メルヴィルとシャブロルの撮影でもいろんなことをしました。メルヴィルの『いぬ』では最初、助監督でしたが最終的に撮影技師になりました。『マンハッタンの二人の男』ではたびたびショットのフレーミングを行ないましたその。製作者ジョルジュ・ド・ボルガールのために働いていた頃、私はよく追加素材を撮りました。撮影の終わりに必要な場面やショットの追加撮影です。たとえば『青髭』では撮影所で追加場面を撮りました。『いぬ』のインサート・ショットのすべても撮りました」。
「この時期、私はシャブロルの『二重の鍵』や『気のいい女たち』、またメルヴィルの『マンハッタンの二人の男』の仕事をしていました。その後、健康を害し、1年間の休業を余儀なくされました。仕事を再開したのは1962年です。それは『女と男のいる舗道』でした。ジャン=リュックに就いた最初の映画です。私はある場面を撮りました。なぜかはよく覚えていませんが、クタールが映画を撮り終えることができなかったんです。私は仲間のジョルジュ・リロンと共にクタールの助手でした。映画の最後のほうでクタールはリロンと一緒に現場を離れ、私が引き継ぎました。撮影技師として、ゴダールは私に慣例とは正反対のことをやらせました。私はシャンゼリゼ大通りでのサディ・レボとアンナ・カリーナの会話場面を撮りました。一種の移動撮影がありましたが、ゴダールにこう言われました。《いいか、そこで移動を止める必要がある》。しかし私はゴダールに言いました。サディ・レボの首しか見えなくなるので、それはダメだと。するとゴダールは答えました。《それが狙いだ》。
普通と違うやり方を強いられました。当時はビデオ・モニターなどないので、とても不安でした。監督も、その作品が成功か失敗かは、試写で初めてわかったんです。ジャン=リュックの場合、多くの心配がありました。彼の狙いが仮に厳密なものだったとしても、彼ははっきり説明するとは限らなかったからです。その結果、私は試写のあいだ中、ずっと不安でした」。
「それ[メルヴィルの撮影所]はジェンネル街にありました。焼けてしまったので、もうありません。あの通りはたびたびメルヴィル作品の背景になっています。撮影所のあった場所の裏にはもっと小さな道があって、ジェンネル街に直行していました。ゴダールが『女と男のいる舗道』の最後の場面を撮った、アンナ・カリーナが撃たれる場所です。たしかアボンダンス街rue des Abondancesです。メルヴィルの撮影所はその角にありました。ゴダールとメルヴィルの間にいたので、あの界隈で多くの時間を過ごしました」。
(地図にrue des Abondancesが見つからないとの質問に対し)「なにしろ13区はすっかり変わってしまいましたからね。古いパリの地図が必要だ。ちょっと待ってください。上の階にあるはずなので
…」
(街が変わったと思いますか)「ええ、ジェンネル街からジャンヌ・ダルク街に抜ける道があったんですが、もうありません。パリは不変じゃないんです。発展する都市です…。ここにありました。通りの名前はrue des Abondancesじゃなくてギュスタヴ・ムシュリエ街rue Gustave Mesurierです。『女と男のいる舗道』のナナが死ぬ場所です。この地図は1969年の出版です。この道はジェンネル街からエスキロル街rue Esquirollまでです。
(ゴダールは13区が好きだったんですか?)「いえ、そういうわけじゃありません。ゴダールはメルヴィルが好きだったので、この近隣で撮ることは、ひそかなメルヴィルへの目配せでした。ゴダールはよく、自分の実生活に関連する特定の場所を、室内であれ屋外であれ、選びますが、普通、観客はそれが何なのか気づきません」。
シャルル・ビッチのインタビューの翻訳ありがとうございます。
『女と男のいる舗道』に見られるカメラワークの秘密、ラストシーンの場所の謎などが分かって、大変興味深かったです。
私自身、ジェンネル通りには2度足を運び、写真もかなり撮ったにもかかわらず、問題のラストシーンのレストランの場所が特定できずにいたのですが、すでに通りが無くなったと知って、謎が解けました。
ありがとうございました。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
リンク、コメント、TB等はご自由にどうぞ。