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待望の『影の軍隊』の国内DVDが届きました。
時間が取れなくて、実はまだ途中までしか観ていないのですが、ちょっと見比べた感じでは、画質はクライテリオン盤に拮抗する美しさです。
HPのBBSである方から、映画冒頭部分のキャストの名前のロゴが切れるとの報告がございましたが、私の自宅のテレビ(ワイド37型液晶)ではそのようなことはありませんでした。
画面構成も、私が観る限り、クライテリオン盤とほとんど(99%以上)変わらないと言ってよいと思います。
音声もAmazonの一部で心配されていた英語ではなく、ちゃんと仏語です。
良くも悪くも新鮮なのが字幕で、東北新社盤の字幕に慣れているせいか、ところどころ「?」の付くシーンがあります。
東北新社盤よりも丁寧と思われる部分もあり、現段階ではどちらがどうとは言えませんが・・・。
この辺り、全部観終わりましたら、整理してみたいと思います。
あと、PAL原盤特有のスピードアップのため、確かにピッチは高くなっています。
これもクライテリオン盤と比較して確かめました。
私は鈍感なせいか、今回の国内盤のみ観ている限りではさして違和感を感じませんが・・・。
とりあえず、現段階ではそんなところです。
また後ほど、字幕の問題も含め、改めて内容を検証してみたいと思います。
今回取り上げる映画は、『相続人』「L'HERITIER」です。
1973年製作のフランス=イタリア合作映画で、ジャン=ポール・ベルモンド主演のサスペンス映画。
監督のフィリップ・ラブロ(1936~)はメルヴィルの弟子で、周囲から“精神的息子”と言われたほど、メルヴィルに私淑していた人物です。
(画像は近年のフィリップ・ラブロ)
例えば、『影の軍隊』『仁義』の作曲家であるエリック・ド・マルサンは、メルヴィルのジェンネル通りにある家を訪ねた時の様子を次のように語っています。
「通常私は土曜日に彼を訪ねましたが、そこでしばしば彼の精神的息子であるフィリップ・ラブロが家を出る場面に行きあたりました」(仏ユニヴァーサルから発売されている『影の軍隊』サントラのブックレットより)
また、フィリップ・ラブロは、ルイ・ノゲイラ著『サムライ』のあとがきも書いています。
フィリップ・ラブロのこの他の監督作品に、『刑事キャレラ/10+1の追撃 SANS MOBILE APPARENT』(71年 エド・マクベイン原作 ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ共演)、『潮騒 LE HASARD ET LA VIOLENSE』(74年 イヴ・モンタン、キャサリン・ロス共演)、『危険を買う男 L' ALPAGUEUR』(76年 ベルモンド主演)など。
ところで、この『相続人』ですが、大変に面白い映画でした。
鉄鋼会社と新聞社を支配していた財界の大物の父の死によって、ベルモンドが相続人としてアメリカから帰国するところから物語は始まりますが、いわゆるフィルム・ノワールというよりは、実業界の政争をサスペンス・アクションとして描いたという趣の作品です。
しかし、どこかしら、メルヴィル的なクールなタッチが感じられ、音楽の共通点(ミシェル・コロンビエ)もあって、『リスボン特急』あたりに近い味わいが感じられます。
サスペンス映画としても脚本が実によくできており、ストーリーとしては、むしろ、こちらの方が面白いと言えるかもしれません。
ベルモンドも、他のアクション物とは一味違った重厚さをここでは見せて実にカッコ良いです。
共演のジャン・ロシュフォール、シャルル・デネも好演で、ベルモンドとデネの相性が意外なほど良く、二人のコンビぶりが素晴らしい。
女優二人(カルラ・グラヴィーナ、モーリン・カーウィン)との絡みもあまり描写がくどくなく、匙加減が絶妙。
そして、この映画と、メルヴィルの繋がりはなかなか面白いものがあります。
まず、キャストですが、メルヴィル作品とも縁あるジャン=ポール・ベルモンド、ジャン・ドサイ、ピエール・グラッセが出演しています。
ベルモンドとグラッセの共演というのも非常に珍しいのではないでしょうか。
しかも、グラッセは『マンハッタンの二人の男』と同じくジャーナリストを演じているのですが、なんとその役名がデルマス。
そう、あの『マンハッタンの二人の男』でグラッセが演じた役名と同じなのです。
ルイ・ノゲイラ著『サムライ』において、メルヴィルは次のように語っています。
“ベルモンドが私に言ったんだが、『マンハッタンの二人の男』を見た時、ベルモンドは〈マリニャン〉〔映画館〕から非常に暗い気持ちで外に出た。その年はベルモンドの年ではなくてグラッセの年になるだろうと思ったからなんだ。ただし、私の映画に対してある陰謀が企てられ、ちっとも儲からなかったがね。”(『サムライ』ルイ・ノゲイラ著 晶文社刊)
その二人がこの映画で共演しているのは、メルヴィルの弟子であるフィリップ・ラブロの監督作品だからこそと言えるのではないでしょうか。
また、飛行機の中でベルモンドが罠を仕掛けられる女(モーリン・カーウィン)の名前がローレン・コーレイというのも、『仁義』を知っている人にはニヤリとさせられる点でしょう。(『仁義』でのアラン・ドロンの役名はコーレイです)
そして、音楽は『リスボン特急』の音楽も担当していたミシェル・コロンビエ。
『リスボン特急』とほぼ同時期の作品ということもあり、テイストがかなり似ていますが、こちらの方がシンセサイザーを多様した、フュージョンっぽいサウンドが聴かれます。
その点、いかにもこの時代の作品という感じですが、それが映画に合っていてなんとも格好良いんですよね。
私自身、ずっと感じていたことですが、メルヴィル作品の魅力として、出演俳優のファッション、着こなしもその一つとして挙げられると思います。
今観ても、そのファッション、着こなしは少しも古臭くなく、むしろ、今観ても、実に格好良いことに驚かされます。
彼らのファッションは古典的といいますか、特別当時の流行を追ったものではありませんが、むしろそれが、今観ても古臭く感じない大きな理由の一つかもしれません。
メルヴィル作品の舞台は主に冬であり、映画の舞台が夏であったり、出演者が薄着をしていたりするシチュエイションは皆無といってよいほどありません。
11月に入り、ようやく冬が近づいてきましたので、これから何回かに渡って、メルヴィル作品における出演俳優のファッションをいくつか検証してゆきたいと思います。
もちろん、検証といいましても、私自身その筋の専門家ではないので限界はありますが、メルヴィル作品の魅力の一環として、参考(?)にしていただければと思います。
メルヴィル作品のファッションとして、中でも目立つアイテムとしては、ソフト帽、トレンチコートが挙げられるでしょうが、まずほとんどのキャラクターがスーツを着ていることを指摘すべきでしょう。
メルヴィル作品のキャラクターは世間的に見ればほとんどがアウトサイダーですが、まず、どんな人物であっても、きちんとスーツを着て、ネクタイを締めているのです。
ほとんどの場合、ダークトーンのスーツやネクタイを着用、ネクタイのノットは小さめに結ばれています。
靴も黒以外はまず見受けられません。
私はそのあたりになんともいえないダンディズムを感じてしまうのです。
デザインはもちろんですが、特に、スーツやコートの着丈、身幅等、俳優の体によく合っているのが、彼らがお洒落に見える理由の一つかと思います。
右上の画像は『仁義』のイヴ・モンタンですが、コートの着丈(膝丈ピッタリ)、袖丈(手がキレイに出ています)、ウエストの加減など、絶妙としか言いようがありません。
事実、自身かなりの洒落者だったというメルヴィルは、出演俳優の着こなしにもかなりうるさかったらしく、それまでほとんどスーツを着たり帽子を被ったことのなかったブールヴィルを『仁義』で起用するにおいて、その着用するスーツや帽子、靴等に至るまで映画用にオーダーで仕立てたらしいです。
一見メルヴィル的な俳優には見えないブールヴィルが、『仁義』において、メルヴィル的な俳優として違和感がないのは、演技力によるところはもちろんでしょうが、その着こなしがスッキリと決まっていたことも大きかったのではないでしょうか。
そして、メルヴィル作品のキャラクターにとってのある種のユニフォームともいえる、トレンチコートについてです。
トレンチコートは、トレンチ(塹壕)というくらいで、もともと軍用であったことから、ハード・ボイルド的な風合いがあり、40年代のアメリカ映画、フィルム・ノワール作品にもたくさん登場します。
とりわけ、ハンフリー・ボガートが『カサブランカ』で着たあたりから、ファッション・アイテムとして、人気が出ました。
日本でも、トレンチコートはここ数年、ファッション・アイテムとして大変人気が高く、特に女性が格好良く着こなしているのが目に付きます。
ところが、男性が着る場合、くたびれた刑事や探偵がトレンチコートを着るイメージが強いせいか、それらはどこかダサカッコ良さといいますか、どこか洗練されきらない、野暮ったさがあるように思います。
他に日本男性が着るトレンチのイメージとしては、くたびれたサラリーマンだとか、学校の先生、あるいはやくざ・・・。
正直、洗練されたカッコ良さとはあまり縁がないように思われます。
ところが、メルヴィル作品の登場人物たちにはそのようなイメージはほとんどなく、実に粋にトレンチを着こなしているのです。
トレンチコートを着ているキャラクターが登場するメルヴィル作品と、俳優をざっと挙げてみましょう。
●『この手紙を読むときは』 フィリップ・ルメール(マックス役)
●『賭博師ボブ』 ロジェ・デュシェーヌ(ボブ役)
●『いぬ』 ジャン=ポール・ベルモンド(シリアン役)、セルジュ・レジアニ(モーリス役)、エメ・ド・マルシュ(ジャン役)
●『ギャング』 リノ・ヴァンチュラ(ギュ役)
●『サムライ』 アラン・ドロン(ジェフ・コステロ役)、ジャック・ルロワ(殺し屋役)。
●『仁義』 アラン・ドロン(コーレイ役)、イヴ・モンタン(ジャンセン役)、ブールヴィル(マテイ警視役)、他にもジャック・ルロワ、ジャン=ピエール・ポジェ(刑事)、リコの手下など
●『リスボン特急』 リチャード・クレンナ(シモン役)、マイケル・コンラッド(ルイ・コスタ役)
これを観て分かるように、トレンチコートは、メルヴィル作品、とりわけ、そのフィルム・ノワール作品に必需品といってよいアイテムであり、主役クラスであればあるほど着用率(?)が高くなります。
もちろん、メルヴィル本人も愛用者の一人で、ステットソンハットにトレンチコートという出で立ちが私生活においても彼独特のスタイルでした。
次回は、『サムライ』のアラン・ドロンのトレンチコートの着こなしを中心に、メルヴィル作品に見られるトレンチコートの特徴をいくつか指摘してみたいと思います。
先日、『ギャング』の原作『おとしまえをつけろ』(ジョゼ・ジョヴァンニ著 岡村孝一訳
早川書房)を読み終えましたが、小説そのものの面白さはもちろんのこと、小説の役柄のイメージと、メルヴィル版映画の俳優のイメージの違いなど、読んでいてとても興味深く思いました。
この作品はこの度、アラン・コルノー監督、ダニエル・オートゥイユ主演でリメイクされ、フランスでもこの10月に公開になりますが(公式サイト)、1966年に撮られたメルヴィル版は、映画の完成までに紆余曲折あり、最終的に完成した映画は、当初予定だったキャスティングとは大きく異なるものとなったのです。
もともとメルヴィルが1964年に映画化する予定だった際のキャスティングは主に次のようなものでした。
ギュ セルジュ・レジアニ
マヌーシュ シモーヌ・シニョレ
ブロ警部 リノ・ヴァンチュラ
ジョー・リッチ ロジェ・アナン
オルロフ ジョルジュ・マルシャル
ポール・リッチ レイモン・ペルグラン
アントワーヌ ピエール・クレマンティ
俳優との契約も既に結ばれていたにもかかわらず、ある事情によって、この計画は流れてしまいます。
メルヴィルは、一旦この映画の話からは外れることになり、次にこの映画を監督することになったのはドニ・ド・ラ・パテリエールでした。
パテリエール監督版では、主演俳優が代わります。
ギュ ジャン・ギャバン
ブロ警部 リノ・ヴァンチュラ
残念ながら、他のキャスティングは分かりません。
一つ分かっていることでは、ドニ・ド・ラ・パテリエール監督は、アントワーヌ役に、メルヴィル版と同じピエール・クレマンティをキャスティングしようとしましたが、クレマンティに「いえ、私はメルヴィル氏の映画に出るはずでしたので、あなたの映画にはこれっぽちも出ようとは思いません」と断られたというのは有名な話です。
当然のことながら、メルヴィルは、クレマンティの態度を高く買いました。
そんなこんなで、どういう事情があったのかは分かりませんが、パテリエール監督版の話も流れてしまい、再びメルヴィルに監督の話しが廻ってきます。
実際に1966年にメルヴィル監督版で映画化された際のキャスティングです。
ギュ リノ・ヴァンチュラ
マヌーシュ クリスチーヌ・ファブレガ
ブロ警部 ポール・ムーリッス
ジョー・リッチ マルセル・ボズフィ
オルロフ ピエール・ジンメル
ポール・リッチ レイモン・ペルグラン
アントワーヌ ドニ・マニュエル
メルヴィルが再び監督をすることが決まったのは撮影の直前(4日前とか)だったらしく、このキャスティングにどれだけメルヴィルの意向が働いているのかは分かりませんが、当初(1964年)の予定とかなり異なっていることから想像しますに、実際はあまりかかわっていないのかもしれません。
アントワーヌ役がピエール・クレマンティではなく、ドニ・マニュエルになっているのは、クレマンティが他の映画の撮影(おそらくルイス・ブニュエル監督の『昼顔』)で、スケジュールが空いていなかったためとのことです。
面白いのは、ギュ役が、それまでずっとブロ警部の役の予定だったリノ・ヴァンチュラにふられていることです。
実際、小説版を読みますと、ギュは50歳以上というの設定で、周囲から“おやじ”“老いぼれ”呼ばわりされており、当時では、ヴァンチュラよりもセルジュ・レジアニが、そして、レジアニ以上にジャン・ギャバンが一番小説のイメージには近い気もします。
完成した作品を観ますと、メルヴィルはその年齢の設定そのものや、役柄のイメージも原作とはあえて変えて撮ろうとしたようにも思われますが、メルヴィルと組んだジャン・ギャバンというのも一度は観てみたかった気がしますね。
二人の関係は、おそらく上手くいかなかったでしょうが。(笑)
マヌーシュは、原作では超美人のグラマーという設定でして、メルヴィルが64年に予定していたシモーヌ・シニョレは、若かりし頃はともかく、当時ですと、年齢的、ビジュアル的に正直どうかな?という思いもします。(笑)
その時点では、ギュ役はセルジュ・レジアニの予定であり、あのジャック・ベッケル監督の『肉体の冠』を彷彿とさせるコンビ復活という狙いもメルヴィルの頭の中には当然あったことでしょう。
そういう意味では、実際に66年に映画化された際のクリスチーヌ・ファブレガの方がずっと原作の役柄のイメージに近かったといえるでしょう。
原作には色っぽいシーンもふんだんにあるのですが、メルヴィル版映画ではそういったシーンがほとんど描かれていないのはメルヴィルらしいと言えるでしょうね。
それでも、今度のリメイク版では、マヌーシュ役がモニカ・ベルッチと聞いて、原作を読む前は正直違和感があったのですが、原作を読んでみると、なるほどなぁーと納得してしまいました。(笑)
ところで、原作によれば、マヌーシュの本名はシモーヌといい、マヌーシュという名前は渾名で、意味は“ジプシー女”というのだそうです。
先日BBSにてFauxさんが紹介して下さった本『ムッシュー・コクトー ママとコクトーと私』(キャロル・ヴェズヴェレール著 花岡敬造訳 東京創元社)を早速購入、現在読み進んでいる最中です。
残念ながら、『恐るべき子供たち』に関してはあまり多くページが割かれていないのですが、本の内容は、ジャン・コクトーという魅力的な人物の生身の姿を伝える、読み物として大変面白いものです。
タイトルの“ママ”とはフランシーヌ・ヴェズヴェレールという、『恐るべき子供たち』の映画化を経済的に援助した富豪の夫人のことです。
この映画でエリザベートを演じたニコル・ステファーヌは、夫人のご主人の従妹にあたり、当時ヴェズヴェレール一家と同じ屋根の下に暮していたのです。
そして、ニコルを通じて、ジャン・コクトーとヴェズヴェレール夫人は知り合うことになります。
この本の著者キャロル・ヴェズヴェレールは、もちろんヴェズヴェレール夫人の娘さんのことで、この一家は、この映画をきっかけとして、63年にコクトーが亡くなるまでの間、家族同然の交友関係を続けることになるのです。
ちなみに、この本の著者キャロル・ヴェズヴェレール、ニコル・ステファーヌの近年のインタビューがクライテリオン盤DVD『恐るべき子供たち』の特典映像に収録されています。(この記事の一番下の画像はその特典映像に収められたもの)
フランシーヌ夫人がこの映画を経済的に援助することになった経緯については、本の中で次のように書かれています。
メルヴィルはいくつかのシーンの撮影のために工事中の私邸を探していて、また映画を完成するための資金も不足していた。ママは苦労してパパを説得し、合衆国広場の私たちの邸宅を撮影用に提供させたばかりか、映画の完成のための資金まで回収不能を承知でパパに出させた。フランシーヌはこの映画の代母となったのだ。
また、この本の中から、『恐るべき子供たち』のラストを巡る、コクトーとメルヴィルの対立について書かれた部分を引用します。
最初の編集の上がりを見るために私はママとスタジオを訪れた。上映後、コクトーとメルヴィルのあいだでかなり激しい議論が始まった。映画のエンディングに関して両者の意見が分かれていることが私にも理解できた。ムッシュー・コクトーはポールとエリザベートが死んだ後、一枚のシーツに包まれて天国に上るという終わり方にしたかった。私はこのイメージを素晴らしいと思ったが、メルヴィルはそのアイディアに断固反対で、監督はコクトーではなく自分だと言い返した。優しすぎるコクトーはメルヴィルの言葉にとても傷ついたようだった。その日の夜、私はママから結局メルヴィルの意見が通って、屏風が倒れるシーンで映画が終わることになった、と聞いた。メルヴィルがコクトーを手酷く扱うのを聞いていたニコルは激怒して彼に平手打ちを加え、メルヴィルの方でも彼女に殴り返したが、クリスタルの灰皿を手にしたママが立ちはだかって、「ニコルに手を出さないで!」と叫んだと言う。私のニコルへの賞賛の念は倍増した。
クライテリオン盤DVD『サムライ』の特典映像に収録されているジャン=ピエール・メルヴィル監督のインタビューを翻訳して紹介する3回目(最終回)です。
メルヴィル 私が最も難しいと思うことは、性について描写することだな。
私は自分の映画で美徳を描いているんだ。
映画を検閲する立場からいえば、私は潔癖主義(ピューリタン)だよ。
いわば、それが質を持ち得る限りにおいては私は許容することができるんだよ。
問 あまりに多くの映画を観ることはあなたの映画製作の邪魔になりませんか?
メルヴィル いや、それは私の栄養なんだ。
それなしでは生きられないな。
一方で、32、33年前と比べると、最近はほとんど映画を観なくなったよ。
当時は、常に一日に5本は映画を観ていたからね。
5本から数が減ると、禁断症状になったものさ。
私は常に自宅に映写室があったから、夕食の後には、2本のアメリカ映画を観るのが日課だったんだ。
問 映画監督は難しいお仕事ですか?
メルヴィル とても、とてもとても難しい仕事だよ。
君も年齢を追うごとに、苦労するはずだし、キャリアを積んでくると、より大変になるはずさ。
この仕事で重要なことは、極めて健康であることだ。
この作品(『仁義』)や、昨年撮った『影の軍隊』のような作品を撮影することは恐ろしく難しいことだったよ。
誰よりも先にセットにいき、誰よりも後に去る、しかも、セットに居るすべての人を自分の後につき従わせるんだ。
実際に命令を発したり、“開始!”を叫ばなければならないんだからな。
問 やくざはあなたにとって何を象徴しているのですか?
メルヴィル 別に何と言うことはないよ。
彼らは哀れな負け犬さ。
でも、たまたまだが、やくざの物語は、アメリカの探偵小説から生まれた“フィルム・ノワール”という現代悲劇の特殊な表現形式にはとても適しているんだ。
柔軟性のあるジャンルなんだよ。
良きにしろ、悪しきにしろ、映画は表現したいことを何でも描くことができる。
だから、その人にとっての大事な物語・・・例えば、個人の自由、友情、または、人間関係について・・・を描くのはかなり容易い手段さ。
それらはつねに友好的とは限らないからね。
また、裏切りも・・・アメリカの犯罪小説の主要な要素の一つだが・・・そうだがね。
問 あなたは実際のやくざをご存知ですか?
メルヴィル ああ。何人かは知ってるよ。
でも、私の映画には、実際のやくざに似た人はいないよ。
私は長く汚いことに手を染めていない。
これまでの人生で全くないわけじゃないが、その時は恥じたよ。
午前3時に部屋に一人でいると、私は慎み深いだけでなく、謙虚になると君に請け負うよ。
私はリスクを犯すのが好きだ。
私の映画は時代の流行を追ったものでは決してないよ。
商業的であることは映画の本分だ。
何よりまず、映画は商品なんだからね。
観る者を楽しませる・・・それが芸術家としての誠実な視点だよ。
私は、私の映画を観終わったお客が映画館から出てゆくところを見るのが好きなんだ。
彼らが私の映画を理解したか否かは確信がないがね。
私は観た人をあれこれ思い巡らしておきたいんだ。
問 あなたは死について考えますか?
メルヴィル いいや。私は死に対しては全く無関心だ。
それがどんなものかはよく知ってるつもりだが、全く関心がないんだよ。
問 死はあなたの映画ではよく描かれるテーマですよね?
メルヴィル そうだよ。
確かに、死は今すぐにも、1分以内にも、2時間以内にも、6ヶ月以内にも起こり得るものだが、それはちっとも重要じゃないのさ。
クライテリオン盤DVD『サムライ』の特典映像に収録されているジャン=ピエール・メルヴィル監督のインタビューを翻訳して紹介する2回目です。
問 映画の編集は楽しいですか?
メルヴィル とてもね。
映画作りで最も楽しいのは、間違いなくこれと脚本を書くことだね。
書くことと編集だ。
別の言葉で言えば、着想と仕上げということだね。
これは、映画作りの上での二つの主要な段階だよ。
問 映画の撮影はお好きですか?
メルヴィル いや、全然。
撮影は大嫌いなんだ。
私は“退屈な行為”と呼んでいるんだよ。
とにかく嫌だな。
退屈な仕事全体の中での唯一の救いは、俳優を演出する素晴らしい瞬間だけだね。
問 あなたは、一緒に働く俳優たちに対して厳しいですか?
メルヴィル いや。
俳優に対してそんなことはないよ。
それは愚かなことだ。
君は俳優たちに厳しくあたってはいけないよ。
それがどんな人たちでもだ。
それは儚いものさ。
キャメラの前で、今私がしようとしているように自然に振舞うことは大変なことなんだ。
私はキャメラの背後でそのことをより求めているわけなんだけどね。
問 あなたはご自身の映画をどう思われますか?
メルヴィル いや、思わないな。
私はあえてそのことを考えないようにしてるんだ。
自分でそれらを作ったからこそ、客観視するのは不可能さ。
唯一、撮影の時、あるシーンを撮った際に起こった問題のことだけ思い出すんだ。
それに、不幸にも、良い思い出だったりする。
だから、自分の映画を判断するのは不可能さ。
問 あなたはご自身を俳優としてはどうお考えですか?
メルヴィル ひどいもんさ。
およそ似つかわしくない仕事をしようとしている素人のようなものだよ。
問 そのことはあなたの演出をより難しいものにしましたか?
メルヴィル そうだね。
演出の点からというよりも、自分自身の位置付けの問題としてね。
あるシーンで、俳優が私に向かって話しているのを見ながら、私が求めたように彼らが演じているかどうかを観察していることは明らかだよ。
この後、『仁義』での編集担当の女性・マリー=ゾフィー・デュブが、フィルムをカットするなど、編集の仕事をしているシーンが映し出される。
画面に流れる音は、『仁義』のジャンセンとコーレイがジャンセンの家で会話するシーンのものと思われる。
(続く)
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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