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メルヴィル監督とアンリ・ドカの関係についてズラズラと書き連ねてまいりましたが、今回の最終回は、前回紹介したドカのインタビューで、ドカが指摘していたメルヴィルの“変化”についての私見を述べてみたいと思います。
ドカは、晩年のメルヴィルは商売人になってしまって、金のことばかりに目がくらんでいた、映画館を満員にすることばかり考えて、自身の映画さえ平気で犠牲にした、と厳しく批判していました。
本当にそうだったのでしょうか?
アンリ・ドカは当時のフランス映画界でメルヴィルに最も近い人物であり、25年もの長きの間の友人です。
ましてや、フランス映画界の紳士と言ってよいような物腰の柔らかさと謙虚さを兼ね備えた人物であることは以前紹介したインタビュー(メルヴィルとアンリ・ドカ その4)でもご理解いただけるでしょう。
(画像はトリュフォー監督作『大人は判ってくれない』の撮影現場でのもの。右からアンリ・ドカ、フランソワ・トリュフォー、ジャック・ドュミ、右後ろに撮影を見に来ていたジャン=リュック・ゴダール)
そのドカの言うことですから、間違いはないように思えますが、私はどうしても納得のいかない点があるのです。
ドカに言わせれば、メルヴィルが変わったのはドロンとの出会い、つまり『サムライ』(67年)以降ということになります。
しかし、それからメルヴィルが急激に商業主義に傾いたのでしょうか?
むしろ、私は、それ以前から、ハッキリ言えば60年代に入ってからのメルヴィルはすでに商業主義に傾いていたと思うのです。
事実、『マンハッタンの二人の男』(58年)監督後、メルヴィルはすでにこんな言葉を残しているのです。
『もう、こんなことは終わりだ。これからは商業映画を撮る。金になる映画を撮る。それでも決して自分を裏切るようなことにはならないだろうと思う』
(引用―「キネマ旬報」1970年春の特別号NO.520「J・P・メルビル+その他の人びと その全作品を語る」より)
なんと、分かりやすい、ハッキリした宣言でしょう。
これは、疑いなくメルヴィルの商業主義宣言と言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、この言葉には、たとえそういう映画を撮っても、決して質の低いものにはしないという決意のようなものも窺えます。
また、ルイ・ノゲイラの『サムライ』のインタビューでもこの時期のことを回想して、次のように述べています。
『当たらない映画を撮り続ける気はもうこれっぽっちもなかった。呪われた作家、少数派の映画狂にだけ知られた存在でいるのはうんざりだった。』
(引用―ルイ・ノゲイラ著 井上真希訳 晶文社刊「サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」より)
もっと大衆に好まれる、映画館が満員になるような映画を作りたい、もっとたくさんの人たちに自分の映画を観て欲しい――これは映画人として当然の欲求でしょう。
そして、この宣言の後、カルロ・ポンティ、ジョルジュ・ド・ボールガールの製作で監督したのがジャン=ポール・ベルモンド、エマニュエル・リヴァ主演の『モラン神父』(61年)です。
この作品はヒットし、ヴェネチア映画祭で賞を獲るなど、作品としても高く評価されました。
いわば、金になった上に、自らをも裏切らない作品を撮り、商業的にも、芸術的にも成功を収めたのです。
そして、この作品からベルモンドとの関係が生まれ、この後、『いぬ』、『フェルショー家の長男』とジャン=ポール・ベルモンド主演作を立て続けに3作も監督します。
『勝手にしやがれ』でスターになったばかりのベルモンド、あのアラン・ドロンの永遠のライバル、ベルモンドとこの時点で3作も立て続けに撮っているという事実、カルロ・ポンティなどの大プロデューサーと映画を作っているという事実(『いぬ』もそうです)からいっても、この時点で既にメルヴィルが商業主義に傾いているのは疑いないでしょう。
しかも、『モラン神父』、『フェルショー家の長男』では当のアンリ・ドカがキャメラを担当しているのです。
メルヴィルがこの時点ですでに商業主義を意識した映画を撮っていることは、同じセットに居た当のアンリ・ドカが誰よりもよく知っているはずなのですが。
“スター”といえば、メルヴィルは、リノ・ヴァンチュラ主演作も2作(『ギャング』『影の軍隊』)監督しています。
アラン・ドロンと組む前から、“スター”を積極的に主演に起用している事実は、メルヴィルが以前から商業主義に傾いていた何よりの証拠でしょうし、そして、それは、メルヴィルが映画人としてこの業界で生き残っていくために当然の行動だったと思うのです。
それと、“ドロン主演作=商業主義”という図式はいかにも分かりやすいし、実際、ドロンをキャスティングする製作側の意図にそういう側面は否定できないでしょうが、問題とすべきは生まれ出た作品だと思うのです。
私個人の意見では、メルヴィルがドロンと組んだ(少なくとも)『サムライ』、『仁義』においては、メルヴィルは(彼自身の言葉を使えば)自分自身を裏切っていないと思います。
例えば、『サムライ』。
アラン・ドロン主演作ということである程度大衆がついてきたことは間違いないのでしょうが、作品の内容は、決して大衆的でも分かりやすくもないし、むしろ、そういった側面を拒絶しているようにも見えます。
例えば、ドロンともっと派手なアクション映画でも撮っていれば、ドカの批判も理解できるのですが・・・。
そして、『仁義』はフランス映画史に残るような大ヒット作となりましたが、むしろ、今観る我々には、決して派手とは思えないあの作品(むしろ、相当地味な作品ではないでしょうか。前年1969年の大ヒット作『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)と比べてみて下さい)が大ヒットしたという事実は、メルヴィルの作風が急激に通俗的になったせいでは決してないでしょう。
確かに(お金をかけたに違いない)豪華キャストは話題になったでしょうし、公開直前のブールヴィルの死もヒットの一因として考えられますが、映画が当たった大きな理由としては、メルヴィル描くところの、あの独特のクールな世界が観客に受けたのだとしか私には思えません。
そして、仮にメルヴィルが“商売人になって”撮った作品が『サムライ』であり、『仁義』であるならば、私はドロンと組んだメルヴィルの芸術的嗅覚というかセンスは正しかったと思うのです。
メルヴィル&ドロンの最後の作品となった『リスボン特急』は、確かにメルヴィルの監督作品としては質が高いとは言いがたいし、安易とも思える自己引用があまりに目に付くという点でファンとしても納得のいかない作品ではあります。
(メルヴィル自身それはよく分かっていたようで、後に作品について問われた際、「『リスボン特急』なんて作品は撮った覚えないよ。」と冗談めかして答えていたようです)
しかし、あの『サムライ』を撮り、大ヒット作『仁義』を撮ったら、まずプロデューサー(ロベール・ドルフマン)がドロンとメルヴィルでもう1作撮ろうと考えるのも当然でしょうし、何より当のメルヴィル、そして、ドロンが(映画人としての本能的な欲求として)望んだことではなかったかと思うのです。
そして、その『リスボン特急』において、ドカの予想通り、ドロンとメルヴィルはぶつかるわけですが、ある意味、メルヴィル、ドロン、双方が納得する形で二人の関係は(後にメルヴィルの死があったにせよ)終わるべくして終わったのだと思うのです。
そして、決して忘れてはならないことがあります。
『サムライ』撮影中に起きた、ジェンネル・スタジオ焼失事件(67年6月)です。
自身のフランス映画界からの独立の象徴であり、文字通り牙城であった、スタジオの火事による焼失、これがどれほどメルヴィルにとって悲しい出来事であったかは本人にしか分かりません。
この火災によって、映画人としての全財産ともいえるスタジオ、そして、自身映画化を想定して書いていた脚本22本までもがすべて焼けたのです。
当時、メルヴィルは、ヨーロッパでも個人所有の撮影所を持っていた唯一の映画作家でした。
彼にとっての最大の拠り所であり、誇りがこのスタジオではなかったのではないでしょうか。
メルヴィルは、ショックのあまり火災の後約1年はスタジオ跡に足を踏み入れることができなかったといいます。
この事件が、ちょうどアラン・ドロンと初めて組んだ映画『サムライ』を撮っていたその最中に起きたというのもなんとも象徴的です。
(画像はクライテリオン盤DVD『サムライ』特典映像より、火災後のスタジオ跡にたたずむメルヴィルの姿)
「思うに、このとき、ジャン=ピエール・メルヴィルは一度死んでしまったのである。(略)全焼のあと、メルヴィルは、アラン・ドロンという商業性すなわち興行価値のあるスターとかたく手を結ぶことによって(略)すなわち商業主義の磁場に身を捨てることによって、ふたたびよみがえったのだ。たぶん、それ以外に立ち直る方法はなかったにちがいない。」
(引用―山田宏一著 ワイズ出版 「山田宏一のフランス映画誌」より)
山田氏の認識はドカの認識と大部分重なるものであり、私はそこに氏のある種の強い思い込みを感じずにはいられませんが、ここでは、その部分には踏み込まないことにします。
後に、メルヴィルは吹っ切れたのか、スタジオを再建する計画を立てますが、結局、その夢叶わず、この世を去ることになります。(73年8月)
確かにドカの言うとおり、メルヴィルは『サムライ』を撮った頃から金にうるさくなったのかもしれません。
しかし、このような不幸な災難にあった彼が、金にうるさくなったといって、誰が非難できるでしょうか?
被災後のメルヴィルにとって、当たらない映画を撮ることは映画人としての死をも意味するものではなかったでしょうか?
また、メルヴィルはこんな言葉も残しています。
「(映画作家は)いつもすべてを賭けなければならぬ。二十五年ものプロとしてのキャリアがありながら、私は完成した最新作を公開するために、すべてを担保に置かなければならないのだ」
(引用―キネマ旬報1972年12月下旬号NO.595 「リスボン特急」とメルビル監督 より)
もともと、メルヴィルは、(商業主義に傾いた後も)客が映画館にわんさか押しかけるような大衆映画を撮っていたわけではないし、むしろ、スターを積極的に起用しつつも、エンターテインメント性の強い作品を作る存在とは晩年に至るまで縁遠かったといえます。
その彼がもっと自分の作品を大衆に観てもらいたい、映画館を満員にしたいという、職業人として当然の欲求を持ったとして誰が批判できるでしょう?
そして、私は、彼が稼いだ金を他ならぬスタジオ再建のために使おうと考えていたのだと(ファンの贔屓目かもしれませんが)思っているのです。
長々と書いてまいりましたが、結局のところ、私は、メルヴィルがドロンと組みはじめてから突然商業主義になったというわけではないこと、また、火災事故の後でお金に対してシビアにならざるをえない側面があったであろうことを述べたかったわけです。
そういう意味で、ドカのメルヴィルに対する批判は納得のいかない点があるのです。
しかし、だからといって、ドカの言っていることが間違いだという気はありません。
誰が何と言おうと、一番近くでメルヴィルという人間の人となりを知っている人物の発言が一番真実に近いと思うからです。(かといって真実そのものだと言うつもりもありませんが)
私がここに述べた考えの根拠は、あくまで資料、しかも数少ない資料の中にしかありませんが、どう足掻いても、同じ空気を吸っていた者同士の皮膚感覚による人物観察にはかないっこないと思うのです。
ただ、ドカのメルヴィル批判は、同じ空気を吸っていた者同士ゆえに、感情が複雑に絡み合っているようで、ほとんど愛情の裏返しとも取れないことはありません。
ドカはメルヴィルの変化に対して、“悔しい”という言葉を使っています。
自分勝手な推測かもしれませんが、私はそこに、自身、かつてその才能を最高に発揮できたパートナーとの間に、最後までクリエイティヴな関係を全う出来なかった一人の人間の、悔恨の叫びを感じてしまうのです。
(上の画像は『サムライ』撮影風景で(フランソワ・ペリエ演じる警視のオフィスのシーンと思われる)、メルヴィルとアンリ・ドカが一緒に写っている貴重な写真)
駒大苫小牧が負け、最悪の気分です。
さて、気をとりなおして、貴重で興味深いシリーズを読まさせていただいて、実に色々なことが頭を駆けめぐっています。
わたしとしては、ドロンの帰仏後のドカとの仕事に、ドロンへの理解の深さを感じているところです。それは、ジュリアン・デュヴィヴィエとヴェルヌイユ&ギャバンの作品への関わりです。
特に何故、「悪魔のようなあなた」のカメラを引き受けたのか、以前からずっと疑問でそれは現在も解決されていません。
ドロンの商業主義から考えても、この時期のデュヴィヴィエでマーケッティングは無意味だと感じます。ドロンの場合は彼の男気から、それは理解できますが、ドカのそれは非常に複雑なものを感じてしまいます。
マサヤさんのご意見もお聞きしたいです。
では、また。
こんばんは。
高校野球はお気の毒でした・・・。
それはともかく、長々した文章にお付き合い下さってありがとうございました。
私も芸能の世界の端くれに名を連ねておりますが、傍から見ていて、人材のキャスティングほど謎で、またそれゆえに興味深いものはありません。
『悪魔のようなあなた』にドカが起用された理由ですが、正直言って分からないというのが本音ですが、ド・ルーベが音楽に起用されているように、ドロンの推薦という可能性が大きいような気がします。
曖昧な返答ですみません・・・。
チームをつくるところから、すでに映画の醍醐味なのでしょうけれど、多くの思い入れや、ときによっては政治的駆け引きなども含めて、その編制の意味を紐解くのは、やはり難しいですよね。
ドカのドロン主演作品も、『太陽がいっぱい』においては、ポール・ジェゴフやモーリス・ロネのメンバーを考えると充分理解できますが、『黒いチューリップ』、『悪魔のようなあなた』は、何故ドカなのか???
わたしは、ここでドロンが男性、特に父親のような存在の男性から多く愛され続けたスターであることを思い浮かべてしまうのです。考えすぎでしょうかね?
>金になる映画を撮る
この言の解釈なんですが、映画が大衆性を持ったものだから、多くの人に観てもらわなければならないと考えたのか、ブルジョワ的な意味なのか、どちらなのかと考えてしまいます。
金を稼ぐ意味も、映画への投資による動機なのか、やはりブルジョワ的意味なのか???
芸術家の良心を守っていたのか、俗物に成り下がっていたのかは、おっしゃるように作品を観れば明らかだとは思うのですが・・・。そういうものが複雑に絡み合って種々の整理がされないままに現在にいたっているんでしょうね。
逆にアラン・ドロンの場合は、メルヴィルやドカと異なり、案外わかりやすいような気がしています。
では、また。
メルヴィル監督ファンサイトの管理人の面目躍如たるすばらしい内容で、大変興味深く読ませていただきました。
メルヴィルは60年代初めから商業主義に傾いたという説は非常に説得力がございますし、稼いだ金をスタジオ再建のために使おうと考えていたことは大いにあり得ることだと思います。
私も二人には最後までなかよくやってほしかったです。
ところで連載最終回のリスボン特急のお話の中の「自己引用」という言葉の意味がわからないのですが、わかりやすく説明していただけないでしょうか。
その辺りの事情を詳述したドロンの伝記を読みたいところですね。
本屋にはたくさんの映画本が並んでいますが、ドロン関連の書物(伝記物)が一冊もないことにいつも驚きます。
>金になる映画を撮る
確かに解釈の難しい言葉ですね。
ルイ・ノゲイラ著『サムライ』の157~158ページにも書かれていますが、メルヴィルは映画で生計を立てることの厳しさを噛み締めていた人ですから、仰るような“ブルジョワ的”(個人的にはあまり好きな言葉ではありませんが)意味合いも強いのかもしれません。
もちろん、自分の映画が大衆に顧みられることのない寂しさを感じていたせいもあると思うのですけどね。
読んでいただいてありがとうございます。
これまでBBS等でも何度か触れていたテーマでしたが、一度まとめてみたいと思っていました。
ただ、資料もあまり多くないですし、個人故の能力の限界も感じましたが、楽しんでいただけたら幸いです。
『リスボン特急』について書いた「自己引用」という言葉の意味ですが、過去の作品に観られたワンシーンをほぼそのまま引用しているようなシーンがあったという意味です。
一例を挙げますと、『リスボン特急』ラストシーンでシモンが丸腰だったという設定は、『サムライ』のラストシーンに類似していますし、また、シモンらが医者の格好をして病院に乗り込むところなんかも『影の軍隊』のマチルドらが救世軍の格好をしてゲシュタポ本部に乗り込むシーンに類似しています。
それなりの説得力があれば過去の作品に似ていようが構わないのですし、個性的な語法としてとらえる見方もあるかもしれませんが、そこまでは感じられなかったというのが私の本音なのです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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