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『仁義』撮影時におけるメルヴィルとアンリ・ドカの“ケンカ別れ”の続きです。
前回はメルヴィル側の言い分を紹介しましたので、今回はドカ側の言い分としまして、前々回紹介しました「キネマ旬報」のインタビューから、関連する部分を紹介します。
少々長くなりますが、メルヴィルとアラン・ドロンの興味深い関係も含め、いろいろ考えさせられることの多いインタビューです。
ドカエ 故人の悪口を言いたくはないのですけれども、晩年のメルヴィルは、すっかり人が変わってしまって、ちょっと商売のことにばかり興味をもちすぎた傾向がありましたね。映画ファンの初心を忘れて、ちょっと実業家になってしまった。そんなことから、わたしたちはおたがいに疎遠になってしまった。
――映画ファンからしだいに実業家になっていったメルヴィルの変化は、彼の作品にもよく現われていたと思うんですが、その“変化”の転機は、アラン・ドロンとの出会いだったのではないでしょうか?
ドカエ そのとおりですね、まったく。奇妙なことですが、メルヴィルはずっと以前からアラン・ドロンに興味をもっていて、わたしに、なんども、ドロンに会わせてくれと言ったものです。わたしは『太陽がいっぱい』以来、もうなんどかドロンといっしょに仕事をしていたし、知り合いでしたからね。しかし、それだけに、わたしは、メルヴィルとドロンがうまくやっていけるはずがないと思って、あえてふたりをおたがいに紹介しなかった。メルヴィルは俳優を平気で自分のイメージのためにいけにえにするし、その意味では俳優を軽蔑すらしていた。ところが、アラン・ドロンはスターであり、すべてのひとに自分をスターとしてあつかうことを要求している。この強烈な個性をもったふたりが出会っても、うまくいくわけがない!ところが、それから、たまたま、メルヴィルは、『サムライ』で、アラン・ドロンと組むことになったわけです。そして、すべてがじつに順調にいったのでした。アラン・ドロンはメルヴィルのやりかたにすっかり惚れ込んでしまったし、メルヴィルのほうも、いつもの自我意識を捨てて、ドロンのイメージに熱中したんですね。そんなわけで、メルヴィルはわたしにちょっと文句を言ったものです――「どうだい、アンリ、うまくいったじゃないか。二年もまえから、おれはきみに、アラン・ドロンと会わせてくれってたのんでいたじゃないか。もっと早くあいつと会って映画を作りたかったよ」そこで、わたしはメルヴィルにこう言い返してやったものです――「たしかに、そのとおりだ。でも、二年まえのきみには、アラン・ドロンをうけいれるだけの心構えができていなかったよ」とね。次いで、メルヴィルは、ふたたびドロンと組んで、『仁義』を撮り、これもうまくいきました。メルヴィルも、ドロンも、おたがいをプロとして、深く尊敬し合っていたんですね。しかし、じつは、そのために、おたがいに、妥協し合うかわりに、それぞれの高みにまで達しようとして背伸びし合う結果になってしまった。『リスボン特急』のときには――わたしはこの映画のカメラは担当していないのですが――完全にふたりは仲違いしていたと思いますね。わたし自身も、『仁義』が終わったときには、メルヴィルとはケンカ別れをしてしまった。メルヴィルはひどく独裁的で、一方的で、撮影スタッフや助監督たちをののしったので、そのことで、わたしはメルヴィルに抗議をしたのです。
――アラン・ドロンはどうだったのですか?
ドカエ ドロンはプロの俳優として完璧だったと思います。能力もあるし、やる気もありますからね。ただ、つねにスターとしてふるまう。それは彼のスターとしての矜持であって、当然のことなわけです。たとえば『黒いチューリップ』の撮影中に、製作関係でちょっといざこざがあって、ドロンのことをないがしろにしてしまった。そういうことはドロンの気に入らない。どんなときでも、彼はナンバー・ワンのスターとして尊敬されないと気がすまない。ところが、メルヴィルに対してだけは、そんなスター意識を捨ててぶつかっていったんですね。にもかかわらず、最後には、歯車が噛み合わなくなり、衝突してしまった。わたしが思うに、わるいのは、やはりメルヴィルであって、ドロンではない。メルヴィルぐらい映画を心から愛していた監督もいなかったのに、晩年の彼はすっかり商売人になってしまって、映画づくりや撮影そのものにも興味がなくなったようでした。金だけに目がくらんでいたような気がするんですね。残念なことですが・・・・・・。映画館を満員にすることばかり考えて、彼自身の“映画”を平気で犠牲にするようになってしまった。わたしとしては、とても残念で、くやしいと思いましたね。
(以上、引用 ~ キネマ旬報 1976年四月上旬春の特別号 NO.680「アンリ・ドカエ氏 愛をこめて映画と自己についての総てを日本で語る」より ~ 画像はクライテリオン盤DVD『仁義』特典ディスクより)
メルヴィル・ファンにとりましては、ショッキングな言葉が並びます。
すでにメルヴィルが亡くなって2年以上たった後のインタビューですが、ドカの腹の虫は収まっていないようです。
ドカは“ケンカ別れ”の原因として、メルヴィルの“変化”と、撮影時の独裁的な振舞いを挙げています。
しかし、私の想像ですが、ドカの怒りは(メルヴィル自身予期していたとはいえ)ルイ・ノゲイラの『サムライ』にあまりに露骨なドカ批判が載ってしまったことが大きかったのではないでしょうか?
ドカが抱いていた、晩年のメルヴィルの変化(これには賛否あると思いますが)に対する個人的な不満と『仁義』撮影時のトラブル、それに加え、ルイ・ノゲイラの本におけるドカ批判が重なれば、その怒りも無理はないのかもしれません。
いくら『仁義』の撮影において関係が上手くいかなかったとはいえ、長年のパートナーでもあり、当時フランスを代表する大キャメラマンとなっていた自分のことを、“本”という後世にも残る形で批判されたドカとしては、“メルヴィルはなんてひどいヤツだ!”となってもおかしくないでしょう。
次回、最終回(予定)では、ドカ言うところの、メルヴィルの“変化”に対する私の個人的な考えを述べてみたいと思います。(大したことは言えません)
基本的に、フランス人のプライドの高さは、他の国の人間が理解することは困難で、しかし頑張ってそれを、まず理解しようとするところから考えることが必要だと思います。
そういう意味でのプライドのぶつかり合いがいわゆる決定的な決裂のようでも、何か素晴らしいものを生み出しているはずだと、わたしは考えます。「なかよしこよし」だけで何を生み出せるというのでしょう。
ドカ、ドロン、そしてメルヴィル、彼らの確執こそ、素晴らしい芸術を生み出したエネルギーであったと、わたしは考えるところなのです。
では、また。
ドカの立場になって考えてみますと、波長が合うはずがないと確信して引き合わせしなかったドロンさんに対して、メルヴィルが自分を通り越して接触を持ったことがそもそもメルヴィルへの不信感の始まりだったのでしょう。その二人がやがて仲違いすることはドカにはある程度予想の付いていたことであり、彼には「人を見る目」があったと言えます。こういうことは私も仕事上でいろいろな人たちとお付き合いするなかで経験してきたことでもあり、ドカには非常に共感してしまいます。
ただしメルヴィルについて後年「映画館を満員にすることばかり考えて」と批判してますが、私はドカほどこのことを否定的には考えません。ドロンさんも含めてこれは職業人として当然の目標であると思うからです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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