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フィル・ローゼン監督の『マリー・ロジェの秘密』を国内盤DVD(ブロードウェイ『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』)で観た感想。

The Mystery of Marie Roget』(42年)
監督:フィル・ローゼン
出演:パトレイック・ノース、マリア・モンテス

実際にあった殺人事件をモデルに、エドガー・アラン・ポーが書き上げた原作『マリー・ロジェの謎』を映画化したもの。

題材としては面白いし、俳優も決して悪くないのに、どこか間の抜けた印象が拭えないのは演出にキレがないためか。
時間としては60分程度と長くないにもかかわらず、むしろ長く感じてしまうというヘンな映画である。
オチもどこか消化不良な感じが残る。

ただ、表題役を演じたマリア・モンテスは40年代ハリウッドにおいて”テクニカラーの女王”と言われただけあって、それも頷ける美貌。

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7月9日、松田聖子日本武道館コンサートに行ってきました。

ただし、コンサートの内容についてSNS等で発信することは禁じられているので、ここで言及することはできません。
なので、コンサートに付随する諸々のことなどを。
昨年の武道館コンサートについて書いた記事

コンサートは大盛況でした。
場内はもちろん、会場の外に至るまで物凄い熱気で立見席まで人でいっぱいです。
翌日10日も同じ武道館でコンサートは行われましたが、同じような状況だったのではないでしょうか。

それにしても、これほどの多くの人々をいまだに惹き付けている聖子さんとは一体何者なのでしょうか?
正直なところ、私自身、分かっているようで実は分かっていない気がしてならないのです。

実際、松田聖子とは何ぞや?という疑問は常に私の心の中にあります。
ただ、世間一般における松田聖子と、私たちファンにとっての松田聖子は、重なる部分はあるにせよ、異なる部分もかなりあるのではないでしょうか。
そこのところを混同すると、私自身ますます迷路に入ってしまうような気がします。
私がここで考えたいのは私たちファンにとっての松田聖子です。

武道館に集まったファンは私と同年代の人たちがほとんどです。
特に女性ファンの熱狂ぶりは半端ないです。
実際、会場を埋めているファンの6~7割は女性でしょう。
男性諸氏はだいたい周囲の女性パワーに圧倒され、その反応に流されるままに呆然と”姫”を眺めているだけという感じです。(私もその類)

あそこにいた人たちは、男女を問わず、聖子さんがデビューし世の中を席巻したあの80年代初頭の時代をともに経験した人たちがほとんどなのでしょう。(会場で周囲を見渡せば分かります 笑)
誰もがあの頃はまさに青春真っ只中で、テレビ、レコード、カセットで聖子さんの歌を浴びるように聴いていました。
しかし、松田聖子という一アイドル歌手が30数年後にも大きな存在として自分と関わりを持っているなど、当時は夢にも思わなかったのではないでしょうか。

聖子さん自身、独身時代に著書(!)で「結婚したら引退します」とたびたび書いていましたし、私もいつかはそうなるんだろうなと思っていました。
私は友人の前で「将来は松田聖子と結婚する!」と宣言していましたが(笑)、誠に残念ながらその夢はかなわず、今現在目の前には似ても似つかぬ人が座っています・・・。

それはともかく・・・当時は私たちファンも、部活、受験勉強、恋愛、趣味等、聖子さんだけが青春ではありませんでしたし、なんらかのきっかけで聖子さんから離れてしまった人も多かったと思います。(私は聖子さんの最初の結婚がきっかけ)
しかし、あの時代に聖子さんが私たちに与えたインパクトは、当時の私たちにも想像できないくらい大きいものだったのです。
そうでなければ、こうして今も聖子さんに関わっていないでしょう。

思えば、現在の我々にとって、あの時代を彷彿とさせるような形で生き残っている存在は、ほとんど聖子さんだけになってしまったのではないでしょうか
もちろん、他がすべて消え去ってしまったというわけではないでしょうが、毎年オリジナルアルバムを出し、コンサートツアーをやり、CM等さまざまな話題を提供し、現役感を感じさせるような存在感を放っているのは聖子さんぐらいなのではないかと思うのです。(声の衰えは如何ともしがたいですが・・・)

そういう意味でも、聖子さんはまさしく問答無用の本物の大スターであり、その存在に少しでも近づきたい、同じ空間を共有したいと思わせる人は他にいません。
聖子さんのコンサートは、そういったファンとスターとの結び付きを夢想させる、類い稀な機会であり、そこでは、あの時代の空気、気持ちが多少なりとも心の中に甦ってくるのです。
ある意味、あの時代の同窓会的な場を提供してくれているのが聖子さんのコンサートであると言えるのかもしれません。

ファンにとって80年代の聖子さんの歌がある種のノスタルジーであることは否定できませんが、たとえキーが下がったとしても、また、衰えた声で歌われたとしても、その歌は現在でも決して輝きを失っていません
私たちファンも歳を取り、容姿も境遇も変わりました。
もちろん、聖子さん自身も変わりました。
何もかもが変化した中で、当時の夢を見させてくれるのは聖子さんだけです

その意味でも、聖子さんが毎年のようにオリジナル・アルバムを出すということは意外と重要なことなのではないかと今回改めて感じました。
年に一度のアルバムは、聖子さんという存在が決して過去の遺物ではない、現在進行形のクリエイターであり続けている証でもあるからです。(この際クオリティ云々は問題ではありません)

ただ一方で、コンサートの間、どこか醒めている自分もいます
例年、ニューアルバムからの曲が歌われる前半はほとんど口〇クで、後半のメドレーもかなりの部分がそのように感じます。
それを歌手としてあるまじき行為と見るか、いっときのエンターテインメントを成立させるための演出上の必要悪と見るかは意見は分かれるところかもしれません。
一方で、聖子さんのコンサートにおいてこれはもう長い間行われていることなので(割合は低いものの、80年代半ばから行われていました)、今さら批判しても仕方ないという諦めも正直なところあります。
また、そのことに全く気付いていないファンの人たちも少なくないだろうということも問題を複雑にします。

歌手・松田聖子を考える上で避けて通ることのできない、最も難しい問題がここにあります
一体、聖子さん本人はそのことをどう感じてらっしゃるのでしょうか。
ファンを裏切っているという意識はないのでしょうか。
ファンをなにより大事に思ってらっしゃるであろう聖子さんだからこそ、私はずっと長い間、このことを大変疑問に感じてきました。

聖子さんは歌手であり、コンサートである以上、生歌であることは当然のことです
たとえ、音が外れたり、声が出なかったとしても、それこそが生の歌の醍醐味です。
しかし、それを80年代からずっと続けていたら声の衰えはもっと早く訪れたことでしょう。

どこかで読んだ記事ですが、聖子さんは最初の結婚で一時休業中に、医者からこのまま歌っていけば、そのうち声が出なくなりますよ、というようなことを言われたということです。
それが本当だとすれば、長く歌手活動を続けるためには、誰に何と言われようとこの方法が必要だと考えているのかもしれませんし、ファンの前で松田聖子のイメージをできるだけ壊さないように、喉に危険な歌や負担の大きい歌は生で歌わなくなっているのかもしれません。

しかし、そうであるならば、無理な歌はもう歌わなくてもよいのではないでしょうか
そういった歌は封印して、現在の聖子さんに無理のない歌だけでコンサートを行ったとしても、ファンは納得し、許してくれるのではないでしょうか。

なにより、若い頃に超ハードスケジュールで働かされ、喉を潰してしまった時代を知っているだけに、我々は聖子さんに対して無理を言う気にはなれないという気持ちもあります。
たとえ将来、生歌がコンサートのごく一部になってしまっても、私たちは聖子さんのコンサートに行って喝采を送るような気もします。
正直なところ、私もその辺りの理屈の整合性(?)をどう考えてよいのかよく分かりません。
言っている内容が矛盾しているかもしれませんが、とにかく少しでも長く歌い続けて欲しいのです。
生の舞台で生の歌を歌っていただければ、もう望むことは何もありません。
なによりその存在が我々の生きている証でもあるのですから。

ジョン・ブラーム監督の『高い窓』を国内盤DVD(ブロードウェイ『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』)で観た感想。

The Brasher Doubloon』(47年)
原作:レイモンド・チャンドラー(『高い窓』)
監督:ジョン・ブラーム
出演:ジョージ・モンゴメリー、ナンシー・ギルド、コンラッド・ジャニス

レイモンド・チャンドラーの小説はほとんど読んでいるが、どれがどれと内容の区別がつくほど読み込んでいるわけではない。
この『高い窓』も何度か読んでいるはずだが、内容が他の小説と頭の中でゴッチャになってしまっているのは否めない。

そんなわけで、かえって映画として新鮮な気分で観ることができたが、登場人物の雰囲気や物腰、美術等にチャンドラーらしい雰囲気があるのがまず良い。
脚本もサクサクうまくまとめていて、長い小説の映画化として過不足ない。
原作もいい小説だが、映画としてもかなりの秀作である。

もっとも、マーロウ役のジョージ・モンゴメリーはどことなくフレディ・マーキュリー的な顔つきが多少好みの分かれるところかもしれない。
しかし、スマートでドライな物腰がいかにもマーロウ的で、観ているうちに気にならなくなった。
相手役のナンシー・ギルドもなかなかの好演であり、脇役の俳優たちも皆いかにもそれらしい雰囲気を醸し出していた。




ウィリアム・ディターレ監督の『マルタの鷹』を国内盤DVD(ブロードウェイ『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』)で観た感想。

Satan Met a Lady』(36年)
監督:ウィリアム・ディターレ
脚本:ブラウン・ホームズ
出演:ベティ・デイヴィス 、ウォーレン・ウィリアム 、アリソン・スキップワース 、アーサー・トリーチャー

ダシール・ハメット原作『マルタの鷹』は3度映画化されているが、これは2度目の映画化作品(有名なジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガート主演作は3度目の映画化)。

原作では争奪戦になるマルタの鷹は羊の角笛に、主人公の私立探偵サム・スペードの名前はテッド・シェーンになり、タイトルまで『The Maltese Falcon』が『Satan Met a Lady』(『悪魔が淑女に出逢った』という意)に変更になっている。
間違いなく原作はダシール・ハメットの『マルタの鷹』だが、内容は全く『マルタの鷹』ではないというシロモノである。
ゆえに、この邦題は明らかにおかしい。

そのせいか、ハードボイルド色は弱められ、かなりユーモラスな要素が多い作品に仕上がっている。
ある意味洗練されているとも言えるが、ストーリー展開は結構ハチャメチャで、主人公の探偵と角笛がどうつながるのかもよく分からない。
ボガート版の『マルタの鷹』も展開が早くて付いていけないところはあるが、さすがにこれほどではないように思う。

探偵役のウォーレン・ウィリアムがいかにも探偵という雰囲気に欠けるのはあえて狙っているのかもしれないが、あまり成功しているとは思えない。
飄々とした存在感は悪くはないのだが。
また、ボガート版の『マルタの鷹』にはシドニー・グリーンストリートイライシャ・クック・JRピーター・ローレという最強の助演陣に恵まれているが、この映画の助演陣は悪くはないものの、ボガート版ほどの魅力はとてもない。

一方で、ベティ・デイヴィスの若い頃の美しさ、存在感はさすがで、ボガート版のメアリー・アスターに肉薄しているのは彼女だけだろう。

ジャン・ルノワール監督の『十字路の夜』を国内盤DVD(ブロードウェイ『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』)で観た感想。

LA NUIT DU CARREFOUR』(32年)
原作:ジョルジュ・シムノン
脚本:ジャン・ルノワール
出演:ピエール・ルノワール、ジョルジュ・テロフ、ヴィンナ・ヴィニフリート

ジョルジュ・シムノン原作「メグレと深夜の十字路」を初めて映画化した作品とのこと。
助監督にジャック・ベッケル

amazonを見ているとチラチラこのDVDの宣伝が出るので、いつの間に国内盤DVDが発売されてたんだーと調べたら、先日発売されたばかりの『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』(ブロードウェイ)に収録されていた。(8月にバラでも発売予定)
他にもいくつか観たい作品が収録されていたのでこのBOXを無理して購入。
一番最初に観たのはやっぱりこれだった。

まず、1932年の映画にしては画質が良いのに驚いた。
いくら映画が良くても画質が劣悪だと観る気を無くすから(ブロードウェイのこの種のBOXにはたまにハズレがある)、これは嬉しい。
正直言って、中盤から後半にかけてストーリーについていけない部分があったが(今残っているプリントはどうもカットがあるらしい)、それでもこの映画がとんでもなく凄い映画であることはよく分かった。
もっとも、ルノワールが凄いのかシムノンが凄いのかは分からないが、後半の畳みかけるような展開は圧倒的。
後の『ゲームの規則』(39)なんかもそうだが、ジャン・ルノワールはサスペンスを撮っても超一流である。
それにしてもルノワールの映画で銃撃戦やカーチェイスが見られるとは・・・。
助監督のジャック・ベッケルが後に撮ったノワールの名作『現金に手を出すな』(54)にはこれらのシーンの影響が如実に表れていると思う。

シムノンのメグレものではどうしても後のジャン・ギャバンのイメージが強いわけだが、この映画のピエール・ルノワール(監督の実兄)も決して悪くない。
スター性は皆無に等しいが、演技は達者だし、体格が立派なので存在感もある。

一方で、ヴィナ・ヴィンフリードのファム・ファタールぶりがたまらない。
彼女の存在がこの映画の大きな魅力の一つである。
同じ年(1932年)に撮られたハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』に出ていたアン・ドヴォラック(チェスカ役)を思い出してしまった。

ジョゼフ・H・ルイス監督の『私の名前はジュリア・ロス』を国内盤DVD(ジョゼフ・H・ルイス傑作選)で観た感想。

脚本:ミュリエル・ロイ・ボルトン
撮影:バーネット・ガフィ
出演:ニナ・フォック、ジョージ・マクレデイ

ある家に秘書として雇われた女性がいつの間にか拉致監禁され誰かの身代わりに殺されそうになるという、デジャヴ感ありありの映画だが、出来栄えとしてはまずまず。
ジョゼフ・H・ルイス監督には『拳銃魔』とか『ビッグ・コンボ』というノワールの名作があるが、さすがにその域には達していない。
ヒロインのニナ・フォックは幸薄そうな感じが役柄のイメージにピッタリ。

前回からの続きです。

シューベルト『ピアノ・ソナタ第21番』ヴァレリー・
アファナシエフ(ピアノ)(85年)

なかなかシューベルトから抜け出せない。(笑)
しかし、21番のソナタは絶対に外すわけにはいかないのである。

これも暗い思い出がつまった曲だ(笑)。
今ではシューベルトのピアノ・ソナタもかなりポピュラーになったが、昔は出ているCDもさほど多くなかった。
こと21番ソナタに関しては、ホロヴィッツ(53年盤)、ルービンシュタイン、リヒテル、ポリーニ、ルドルフ・ゼルキン(スタジオとライヴの二種)あたりが評価が高かっただろうか。(内田光子やルプー、ペライア等はまだ出ていなかった)

中でもリヒテル盤は評価が高かったが、私はリヒテルのシューベルトでは13、14、15番のソナタは他に並ぶ者のいない鉄壁の名演だと信じているが、肝心の21番のソナタはどうもピンとこなかった。
ライヴ盤も探して聴いてみたが、スタジオ盤と解釈がまるっきり同じでダメだった。
むしろ、ルドルフ・ゼルキンのライヴ盤(77年)の方が好みだった。(特に第二楽章が素晴らしい)

そんな中、発売されたのがギドン・クレーメル主宰のロッケンハウス音楽祭のライヴ盤ヴァレリー・アファナシエフが弾いたCDだった。
これが世のシューベルト・ファンにどれほどの衝撃で迎えられたか・・・このCDを1分聴けばわかるだろう。
ただならぬ雰囲気、異常に遅いテンポの中、一音一音にこめた思索・・・。
異常な曲を異常に演奏すればこうなるという見本のような演奏だった。

そして、私は、この曲の本質、というか、シューベルトという作曲家の本質はこの曲の第4楽章なのではないか?とずっと感じていた。
そして、そのことを演奏で実践してくれるピアニストはほとんどいなかった。
ゼルキンもいい線まで行っていたが、不満が残った。

だいたいこのソナタの第1楽章、第2楽章を感動的に演奏するピアニストは少なくない。
音楽として比較的分かりやすいし、事実、音楽自体感動的に演奏できるようにできている。
一方で、第3楽章、第4楽章はまるで敗戦処理のように惰性で流されてしまうこともままある。
しかし、アファナシエフの演奏は決してそんなことはなかった。
それどころか、私が思い描いていたこの曲の演奏のイメージそのままだったのである!
”この人はなんて分かってるんだ!”と私は感激した。
我が意を得たりとはこのことだ。

他の楽章はアファナシエフよりも気に入っている演奏はあるかもしれないし、これからも現れるだろうが、第4楽章だけはこのアファナシエフの演奏が絶対に規範になるはずだと信じている。(発売からもう30年近く経っているからすでにそうなっているかもしれないが、このところの演奏は聴いていないので分からない)

昨今、アファナシエフのCDは次々と発売されている。
しかも、日本でのライヴ録音がほとんどのようだ。
おそらく日本には熱狂的なファンがいるのだろう。
私はアファナシエフが後にデンオンの所属になって何枚かシューベルトのCDを出した時に聴いたが、ロッケンハウスでのライヴほどの衝撃はなかった。
一度サントリーホールで生にも触れたが(2003年、ベートーヴェンの最後の3つのソナタ。CDにもなっている)、期待が大きすぎたのか、さほど感動できなかった。

実際問題として、現在アファナシエフの演奏を聴く勇気は生にせよCDにせよ私にはない。
もし今後聴く機会があるとしたら、何も考えずに気安くコンサートに出かける気分になった時ぐらいか、それとも・・・。



●シューベルト『冬の旅』フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ムーア(ピアノ)(71年)

『冬の旅』・・・間違いなく古今東西の音楽作品の中で最も優れた作品の一つだろう。
しかし、世間一般でそのように言われることはまずない。
ある意味、この曲集ほど過小評価されている作品もないのではないか。

この曲については、以前フィッシャー=ディースカウが亡くなった時に少しだけ書いたことがある。(リンク
今回も、どの演奏を選ぶかはちょっと迷った。
何種類もの録音が残っているフィッシャー=ディースカウではやはり71年のドイツ・グラモフォン盤が一番だと思うが、ハンス・ホッターの69年の東京でのライヴ盤もかなり好きなのである。
ホッターはもっと若い頃に(54年)EMIに吹き込んだものも名演として名高いが、録音が良くないせいもあって音楽に充分に浸りきれないきらいがある。
それに比べて、声は衰えていても、ライヴの緊張感と息遣いの生々しさ、録音の良さという意味で東京ライヴの方がずっと好きだ。

あと、ペーター・シュライアーがあのリヒテルの伴奏で歌ったCDも忘れられない。
この曲集の狂気性を露わにした演奏で、シュライアーもかなり大胆な表現をしているので好みが分かれそうである。(私も好きかどうかと言われたら苦手と答えるかもしれない)
同時に、この曲においていかにピアノが大きな存在かを分からせてくれたという意味ではさすがにリヒテルである。

しかし、結局フィッシャー=ディースカウの71年のドイツ・グラモフォン盤を選んでおく。
他の演奏にはこの演奏ほどの思い入れはないからである。


続きます。
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マサヤ
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男性
趣味:
フランス映画、ジャズ
自己紹介:
フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品のファンサイト附属のブログです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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