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前回からの続きです。
●プッチーニ『ラ・ボエーム』トスカニーニ指揮NBC交響楽団、アルバネーゼ(ソプラノ)、ピアーズ(テノール)(46年)
トスカニーニと『ボエーム』、いや、トスカニーニとプッチーニ自体、水と油の取り合わせのように感じられるかもしれないが、実はトスカニーニは『ボエーム』の初演の指揮者であった。
だからなのか、『ボエーム』という作品に対する愛情、思い入れは尋常ではなかったようだ。
そのことはこの演奏を聴けばよくわかるし、この指揮者に対するイメージも変わるのではないだろうか。
トスカニーニのオペラ録音というと、どうしても晩年のヴェルディのオペラ録音のイメージが強いが、ハッキリ言ってほとんどがつまらない。(唯一『オテロ』は好きだが)
さすがのトスカニーニも晩年は衰えを隠せなかったようだ。
特に1950年前後からは硬い響き、融通の利かないリズムになり、直情径行的な、いわゆる一般的なトスカニーニのイメージに近い演奏スタイルになってしまった。
ヴェルディのオペラの録音がその時期に行われたのは残念である。
それに比べ、この46年に録音された『ボエーム』は、溌溂としたリズム、呼吸感、しなやかなカンタービレなど、これぞトスカニーニのイタリア・オペラという名録音である。(実際、録音もいい)
アルバネーゼ、ジャン・ピアーズというトスカニーニ好みのキャストも、この演奏には収まりが良く、不満が少ない。
●シューベルト『交響曲第8番 未完成』ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(60年)
昔のクラシックLPが『運命』『未完成』というカップリングでよく売られていたように、『未完成』という作品は、いわゆるポピュラー名曲的な立ち位置で、中学や高校の音楽の時間に聞かされることも多いだろう。
しかし、ちゃんと聴いてみると、こんな恐ろしい音楽は滅多にないことに気づかされる。
こんな曲を子供に聴かせていいのだろうか、と本気で思ってしまう。
この曲に描かれている世界は、一言で言えば、人間の絶望的なまでの孤独と諦念である。
およそ、未来のある若者に聴かせるべき類の音楽とは思われない。
ただ、そんじょそこらの演奏ではそのあたりの本質を感じ取ることが難しい。
ここに取り上げたCDは、ワルターが60年にウィーン・フィルを最後に振った時のライヴ盤だが、私もこの演奏を聴いて初めてこの曲の真価を知った。(私は昔出ていたAS DISCというレーベルのCDで聴いている)
ワルターも心臓の病気をした後で死を間近にした時期だが(62年に死去)、そういった中でこのような名演奏を残すところなど、さすがに大指揮者だと思う。
●シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』ギドン・クレーメル、ダニエル・フィリップス、キム・カシュカシアン、ヨーヨー・マ(85年)
今回の企画で取り上げたCDはシューベルトが多いが、それも仕方ない。
大学生の頃の”シューベルト体験”があまりにも強烈だったからだ。
恥ずかしい話だが、その頃私は手痛い失恋をした。
そんな時、魔の手(?)を伸ばしてきたのがシューベルトだったのだ。
『未完成』、『弦楽四重奏曲第15番』、『ピアノ・ソナタ』(『第13番』~『第21番』)、『即興曲集』、『楽興の時』、『弦楽五重奏曲』、『八重奏曲』、『ピアノ三重奏曲第2番』、『幻想曲』(ヴァイオリンとピアノ、四手のピアノの二種)、『冬の旅』、『白鳥の歌』・・・そこにはとんでもなく暗く深い音楽の淵が存在していた。
しかも、それは恐ろしいほど美しい。
私はあっけなくシューベルトの泥沼にはまってしまったのである・・・。
今思えば、その音楽は失恋の痛手を和らげるどころか、一層重く苦しいものにしたのだ。
そこから這い上がって生還するまでにはかなりの時間がかかった。(時にブルックナーが心を慰めてくれた)
シューベルトのそれらの作品を今聴くのは勇気がいる。
一種のトラウマのようになっており、あの頃の暗かった自分に再び会うような感覚をおぼえるからだ。
学生の頃に音楽鑑賞サークルに所属していたことは以前書いたが、3年の頃だったか、他大学の同種サークルの方々を自分の大学に招き、学生会館を借りてレコードコンサートを催したことがある。
私の大学から、私も含め数人が自分の好きなCDを持ち寄り、レジュメも作って音楽の魅力を解説しながらCDをかけるわけだが、よりによって私はこのCD(シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』)を選んだ。
私が主催サークルの幹事長だったこともありトリを任されたのであるが、私の順番が回ってきた頃にはすでに数時間が経過しており、その頃にはマーラーやらバルトークやらショスタコーヴィチやらの洪水を浴びた参加者たちは皆疲れ切っていた(笑)。
終楽章までかけるのはあまりにも参加者の皆さんがお気の毒だったので、第1楽章と第2楽章のみかけたのだが、第2楽章が終わった時にその場に居た皆さんの”やっと終わったー”というようなため息が会場に漏れたことを昨日のことのように思い出す。(第2楽章までかけても30分は優に超えたのである)
お口直しにクリフォード・カーゾンの弾いたシューベルト『即興曲』作品142-2とエリーザベト・シューマンの歌うシューベルトの歌曲を2,3曲掛けたが、お口直しになったのかどうか。
今となっては、主催者代表として、来ていただいた皆様には申し訳ないことをしたと思う。
その後の懇親会と称す飲み会で(実はこっちの方がメイン)、何人かの他大学生に”今日のシューベルト良かったっスよ!”というような声を掛けられたのは救いではあった。
しかし、シューベルトが良かったというよりも、爆音のマーラーやバルトークよりはマシだったという意味なのだろうな、と解釈した。
ただ、私がシューベルトのCDをかけている間、私の方を熱い(?)視線でじっと眺めている他大学の女性が一人いたが、あれは何だったのだろうか?
飲み会の席で確認しようとしたが、いろいろと邪魔が入った(笑)。
青春の苦い思い出の一つである・・・。
続きます。
●プッチーニ『ラ・ボエーム』トスカニーニ指揮NBC交響楽団、アルバネーゼ(ソプラノ)、ピアーズ(テノール)(46年)
トスカニーニと『ボエーム』、いや、トスカニーニとプッチーニ自体、水と油の取り合わせのように感じられるかもしれないが、実はトスカニーニは『ボエーム』の初演の指揮者であった。
だからなのか、『ボエーム』という作品に対する愛情、思い入れは尋常ではなかったようだ。
そのことはこの演奏を聴けばよくわかるし、この指揮者に対するイメージも変わるのではないだろうか。
トスカニーニのオペラ録音というと、どうしても晩年のヴェルディのオペラ録音のイメージが強いが、ハッキリ言ってほとんどがつまらない。(唯一『オテロ』は好きだが)
さすがのトスカニーニも晩年は衰えを隠せなかったようだ。
特に1950年前後からは硬い響き、融通の利かないリズムになり、直情径行的な、いわゆる一般的なトスカニーニのイメージに近い演奏スタイルになってしまった。
ヴェルディのオペラの録音がその時期に行われたのは残念である。
それに比べ、この46年に録音された『ボエーム』は、溌溂としたリズム、呼吸感、しなやかなカンタービレなど、これぞトスカニーニのイタリア・オペラという名録音である。(実際、録音もいい)
アルバネーゼ、ジャン・ピアーズというトスカニーニ好みのキャストも、この演奏には収まりが良く、不満が少ない。
●シューベルト『交響曲第8番 未完成』ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(60年)
昔のクラシックLPが『運命』『未完成』というカップリングでよく売られていたように、『未完成』という作品は、いわゆるポピュラー名曲的な立ち位置で、中学や高校の音楽の時間に聞かされることも多いだろう。
しかし、ちゃんと聴いてみると、こんな恐ろしい音楽は滅多にないことに気づかされる。
こんな曲を子供に聴かせていいのだろうか、と本気で思ってしまう。
この曲に描かれている世界は、一言で言えば、人間の絶望的なまでの孤独と諦念である。
およそ、未来のある若者に聴かせるべき類の音楽とは思われない。
ただ、そんじょそこらの演奏ではそのあたりの本質を感じ取ることが難しい。
ここに取り上げたCDは、ワルターが60年にウィーン・フィルを最後に振った時のライヴ盤だが、私もこの演奏を聴いて初めてこの曲の真価を知った。(私は昔出ていたAS DISCというレーベルのCDで聴いている)
ワルターも心臓の病気をした後で死を間近にした時期だが(62年に死去)、そういった中でこのような名演奏を残すところなど、さすがに大指揮者だと思う。
●シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』ギドン・クレーメル、ダニエル・フィリップス、キム・カシュカシアン、ヨーヨー・マ(85年)
今回の企画で取り上げたCDはシューベルトが多いが、それも仕方ない。
大学生の頃の”シューベルト体験”があまりにも強烈だったからだ。
恥ずかしい話だが、その頃私は手痛い失恋をした。
そんな時、魔の手(?)を伸ばしてきたのがシューベルトだったのだ。
『未完成』、『弦楽四重奏曲第15番』、『ピアノ・ソナタ』(『第13番』~『第21番』)、『即興曲集』、『楽興の時』、『弦楽五重奏曲』、『八重奏曲』、『ピアノ三重奏曲第2番』、『幻想曲』(ヴァイオリンとピアノ、四手のピアノの二種)、『冬の旅』、『白鳥の歌』・・・そこにはとんでもなく暗く深い音楽の淵が存在していた。
しかも、それは恐ろしいほど美しい。
私はあっけなくシューベルトの泥沼にはまってしまったのである・・・。
今思えば、その音楽は失恋の痛手を和らげるどころか、一層重く苦しいものにしたのだ。
そこから這い上がって生還するまでにはかなりの時間がかかった。(時にブルックナーが心を慰めてくれた)
シューベルトのそれらの作品を今聴くのは勇気がいる。
一種のトラウマのようになっており、あの頃の暗かった自分に再び会うような感覚をおぼえるからだ。
学生の頃に音楽鑑賞サークルに所属していたことは以前書いたが、3年の頃だったか、他大学の同種サークルの方々を自分の大学に招き、学生会館を借りてレコードコンサートを催したことがある。
私の大学から、私も含め数人が自分の好きなCDを持ち寄り、レジュメも作って音楽の魅力を解説しながらCDをかけるわけだが、よりによって私はこのCD(シューベルト『弦楽四重奏曲第15番』)を選んだ。
私が主催サークルの幹事長だったこともありトリを任されたのであるが、私の順番が回ってきた頃にはすでに数時間が経過しており、その頃にはマーラーやらバルトークやらショスタコーヴィチやらの洪水を浴びた参加者たちは皆疲れ切っていた(笑)。
終楽章までかけるのはあまりにも参加者の皆さんがお気の毒だったので、第1楽章と第2楽章のみかけたのだが、第2楽章が終わった時にその場に居た皆さんの”やっと終わったー”というようなため息が会場に漏れたことを昨日のことのように思い出す。(第2楽章までかけても30分は優に超えたのである)
お口直しにクリフォード・カーゾンの弾いたシューベルト『即興曲』作品142-2とエリーザベト・シューマンの歌うシューベルトの歌曲を2,3曲掛けたが、お口直しになったのかどうか。
今となっては、主催者代表として、来ていただいた皆様には申し訳ないことをしたと思う。
その後の懇親会と称す飲み会で(実はこっちの方がメイン)、何人かの他大学生に”今日のシューベルト良かったっスよ!”というような声を掛けられたのは救いではあった。
しかし、シューベルトが良かったというよりも、爆音のマーラーやバルトークよりはマシだったという意味なのだろうな、と解釈した。
ただ、私がシューベルトのCDをかけている間、私の方を熱い(?)視線でじっと眺めている他大学の女性が一人いたが、あれは何だったのだろうか?
飲み会の席で確認しようとしたが、いろいろと邪魔が入った(笑)。
青春の苦い思い出の一つである・・・。
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マサヤ
性別:
男性
趣味:
フランス映画、ジャズ
自己紹介:
フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品のファンサイト附属のブログです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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