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以下ネタバレあります。
『天井桟敷の人々』はアルレッティ演じるガランスに泣かされる映画だ。
映画の中でガランスは一滴の涙すら流さないが、それでいながら、この女性の哀しさが画面に滲み出ているのである。
この作品は、ガランスという一人の女性に惚れ込んでいる男4人(バチスト、ルメートル、ラスネール、モントレー伯爵)の恋の鞘当てという見方がされる。
ガランスが心から惚れている男は実はバチスト一人なのだが、運命のいたずらからガランスはルメートル(ピエール・ブラッスール)と同棲することとなり、その後、殺人事件の容疑者という立場から逃れるためにモントレー伯爵(ルイ・サルー)を頼り、その愛人となる。
ガランスはモントレー伯爵の愛人(妻?)になりながらも、決して伯爵に心を許しているわけではない。
究極の玉の輿に乗りながらも、相手の伯爵に対し、『あなたのためにできることはなんでもします なんならあなたを愛しているとパリ中に触れ回るわ でもあなたには言います 私は別の人を愛している パリに戻ってきたのもそのためよ でも会えなかった もう発つしかありません』と言い放つ。
私は、ここにどうしようもない運命に流された一人の女性の哀しみを感じずにはいられない。
また、これはフュナンビュル座の桟敷席のシーンになるが、バチストの子供に『おばさんは結婚していないの?子供はいないの?』と問われて『そうよ ひとりきりなのよ』と答える姿も同様だ。
以前はバチストを巡ってライバル心剥き出しだったナタリーに対し『笑うのは くせ』と余裕の笑みを見せていた同じ人間とは思えぬ寂しい姿である。
そして、ラストで馬車に乗って一人去ってゆくガランスの姿ほど哀しく寂しいものはない。
この映画のラストで私が最も心を揺すぶられるのは、カーニバルの群集にまみれたバチストの姿よりも、一人で寂しく去ってゆくガランスの孤独な姿である。
同様に、残されるナタリー(マリア・カザレス)も哀しい。
ラストでバチストはナタリーという妻と子供がいながら、それを振り切ってガランスを追う。
バチストがガランスに追いつくことはおそらく出来ないが、その後ナタリーの母性愛的な深い愛情を持ってしても、バチストがナタリーとの元の生活に戻ることは難しいであろう。
常にバチストとの愛の成就を信じきっていたナタリーであるが、結婚して子供まで設けながらも最後の最後までバチストの真の愛情を得ることはできない…ある意味残酷な物語である。
(この項続く)
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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