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前回紹介した『勝手にしやがれ』のクライテリオン(Criterion)盤の特典映像に収録されたジャン=ピエール・メルヴィル監督の1963年のインタビューの日本語訳の続きになります。
Q:現在、ヌーヴェル・ヴァーグに対するあなたのスタンスはいかがでしょうか?
M:私は自分をヌーヴェル・ヴァーグの一部分だと思ったことはありませんね。
ヌーヴェル・ヴァーグが1959年に生まれた時には私はすでに旧世代の人間でしたから。
Q:では、家族の友人とでもいった方が?
M:ええ(笑)。
もちろん、私は彼らのことがとても好きでしたし、今でもそうです。
彼らは多くの試みをし、実際成功したものもあります。
ヌーヴェル・ヴァーグは162人の才能を生み出しましたが、残ったのは数人です。
よく言って、おそらく4~5人でしょう。
抜け目なくも今になってから誇らしげに言う人たちもいます、“おい?ヌーヴェルヴァーグは今やガタガタじゃないか!”とね。
だからといって、私は急に彼らに背を向ける気はありません。
特に私は彼らが活動を始めた頃からの仲間でしたからね。
彼らに対する私の立場は、あなたがさっき言われた“インディアン”というよりも、かろうじて助言してきた兄貴分といったところでしょうか。
その助言はたいてい、まず聞き入れてはもらえませんでしたが。(この辺りの翻訳は自信ありません)
Q:あなたが印象的な役柄を演じた『勝手にしやがれ』でヌーヴェル・ヴァーグは成功を収めました。
一方で、ヌーヴェル・ヴァーグが大きな失敗を仕出かしたのも否定できません。
一例を挙げますと、ゴダールの『カラビニエ』はごくわずかな観客動員に終わりました。
あなたのお考えではいかがでしょう?観客が飽きたのでしょうか?それとも、監督たちが行き詰っているのでしょうか?
M:私はゴダールを個人的に知っていますが、彼は特殊なケースですね。
なにより、彼は極めて聡明な人間ですよ。
事実、彼らの内の何人かは実に知性に恵まれた人たちです。
トリュフォー、シャブロル、マルは特にそうですね。
Q:知性は映画監督にとって、不可欠の条件なのでしょうか?
M:いや、決して重要ではありません。
それなしでも映画は撮れますよ。
実際、優れた映画監督の中には頭が良いとは言えない人もいますし。
Q:私は彼らに知性が欠けていると言うつもりはありませんが…。
M:頭が悪くとも優秀な監督がいたのは事実ですよ。
ええ、知性は監督の必要条件ではありません。
Q:では、彼らの知的な一面を話していただけますか?
M:知性に恵まれた監督たちの中でも、ゴダールは特別な、とりわけユニークなアーティストですが、私は彼が映画作家であるとは完全には確信していません。
もともと『勝手にしやがれ』はあと一歩で失敗作になりかねない作品でした。
とにかく長過ぎたんです。
ゴダールは多くのカットを削除しなくてはならなくなったのですが、突然彼は同じカット内で削除をしたり、シークエンスをまるごと削除するなどの素晴らしいアイデアを見つけたのです。
我々なら決して成し得ないような大胆さでね。
あるカットの冒頭や途中や最後を削除して短くするなんて我々はまず考えませんからね。
ゴダールはそれをやったし、彼の大胆さが素晴らしい結果を生んだんですね。
結果、今日に至り、映画は特別な魅力と洗練さを得たのです。
この項終わり
ルイ・マルとドロン、クレマンとドロン、ハリウッド時代のドロン、セザール賞のドロンと、こだわるところのドロンを、手前勝手な解釈での記事更新から思うのですが、ドロンはメルヴィルを、やはりどこかで(当初から)、潜在的に憎んでいたのではないか、との疑念に取り付かれ、それが頭から離れません。
それはルイ・マルとトラブルを起こしながら撮った「ウィリアム・ウィルソン」と共通のもの、つまりクレマン、デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャック、ヴェルヌイユ、ギャバンとトラブらなかった彼が、マルやメルヴィル、ベルモンドとは確執を生み、アルヌールやドモンジョ、シニョレとはうまくいっていたのに、バルドーには敢えて無関心、ジャンヌ・モローには尊敬しているといいながら、彼女が満足するような映画にしていないなどということも理由になっています。
どう考えてもドロンの、ヌーヴェル・ヴァーグ憎し、という気持ちが払拭されていないと感じるんです。思い込みでしょうか?
そして、「リスボン特急」は、ヴィスコンティの「イノセント」のオファーを蹴った時期と重なっていることも見落としてはならないところだと考えます。情報が不足しておりますし、各関係者ご本人たちも本質に触れる言動を避ける場合や本人すら気づいていないようなこともあるでしょうから、真実は「藪の中」なのでしょうが、わたしは、どうもそんなことばかり頭から離れないのです。
では、また。
お久しぶりです。
興味深いお話ありがとうございます。
確信はないものの、全くない話でもないような気もします。
もともとドロンは渡米前にメルヴィルからオファーを受けながら断っています。
当時(63年頃?)、メルヴィルはベルモンドと立て続けに映画を撮っていた時期でした。
もちろん、当時ベルモンドはヌーヴェル・ヴァーグのスターでした。
そして、メルヴィルはご存知のように『勝手にしやがれ』にも出演しているわけです。
これらの事実が、トムさんの仮説(と一応呼ばせていただきます)になんからの示唆を与えることになるかもしれません。
もちろん、単なる偶然の積み重ねでしかないかもしれませんが…。
特にマルとメルヴィルは、旧世代と異なる作家主義の監督です。マル以外でも、ベルモンド(ボルサリーノはギャバンや30年代ハリウッドのギャング作品のようです)、トランティニャン(フリック・ストーリーは、まるでメグレもの)、バルドー(共演作は古典)、アンリ・ドカ(クレマン、デュヴィヴィエ、アデル・プロの作品ばかり)、ジャンヌ・モロー(マルセル・カルネの弟子ドフェールの作品で取り込みました)など、「新しい波の趨勢」を自分に合ったヌーヴェル・ヴァーグと別作風のクラシック作風の作品に引き込んでいるわけです(ゴダールでさえそうだとわたしは思っています)。
そういう意味で「ルパン」が企画倒れになったこと、これはドロンの「想いや願い」をメルヴィルが引き受けきれず、彼らにとっての非常に割り切れない状況が発生したことになったのではないか?と、
彼らの確執の遠因にこのような想像もしているところなのです。
突飛な思い込みでしょうか?
では、また。
仰る通り『怪盗ルパン』のイメージはドロン的ではあっても、メルヴィル的ではありませんよね。
それをドロンが分からないはずはないので、メルヴィルが引き受けなかった(?)ことをドロンが悪く思うのはどうかという思いも個人的にはあります。
後に二人は『リスボン特急』で(結果的に上手くいかなかったにせよ)三度手を組むわけですが、割り切れない思いを抱えたまま組むかな、と…。
トムさんの言説を読みながら、いろいろ考えてみたのですが、二人の対立はやはり『リスボン特急』という作品のさまざまな問題点(脚本の不備等)が最大の原因であり、他の時代情勢(ヌーヴェル・ヴァーグ等)による個人的感情は、(少なくとも二人の間では)大きな要素ではなかったのではないかという気がしてきました。
ドロンと映画を撮り始めた頃のメルヴィルは、すでにヌーヴェル・ヴァーグとは無縁の存在となっていた気もしますし、政治的な立場では二人は極めて近い存在(右派)だったのではないでしょうか。
そのあたり、細かいところまでは分かりませんが…。
>『怪盗ルパン』のイメージはドロン的ではあっても、メルヴィル的ではありませんよね。
全くもって。
ただ、わたしは未見なのですが、メルヴィルに妥協するところがあったのなら、ジャック・ベッケルの「ルパン」作品が存在していたことかな?と・・・。
やはりヴィスコンティよりメルヴィルの3度目の作品の出演を望んだドロンの選択を考えると確かにおっしゃるとおりかもしれませんね。
もう少し熟考してみます。
>政治的な立場・・・
ここは実に難しい。
無意識に表出しているところもあるのでしょうが、メルヴィル自身はコミュニズムに期待できずにアナーキーになった、というようなことをおっしゃっていましたよね。
ドロンは、コミュニストであったヴスコンティやロージーと組んでいましたが、自身はドゴール信奉者であると明言しています。恐らくクレマンの影響が大きかったのでしょうね。
ながながと単なるわたしの思い込みにお付き合いさせて申しわけありませんでした。
では、また。
メルヴィルがベッケルの『ルパン』を知らないはずはないので、いち映画ファンとしてドロンと新たなルパンを撮ろうという心積もりがあったのかもしれませんね。
それが実現していたら、ドロンはともかく、メルヴィルにはかなりの冒険となっていたことでしょう。
しかし、さまざまな事情から、ドロンとは(ある意味保守的な選択である)得意分野のフィルム・ノワール作品である『リスボン特急』を撮ることになったのだと思います。
前作『仁義』は大ヒットしてましたし。
政治的な立場に関しては、私から言及してはみたものの、資料も少なく、また、かなり微妙なテーマなので、容易には判断できない問題ですね。
かえって混乱させてしまい、申し訳ありません。
興味深いお話をありがとうございました。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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