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『勝手にしやがれ』のクライテリオン(Criterion)盤の特典映像に収録されたジャン=ピエール・メルヴィルの1963年のインタビュー(時間にして5分半ほど)を翻訳して2回に分けて紹介します。
いうまでもなく、メルヴィルは『勝手にしやがれ』に作家パルヴュレスコ役で俳優としても出演していますし、当時は監督のジャン=リュック・ゴダールの兄貴分のような存在でもありました。
このインタビューは自身の映画よりもヌーヴェル・ヴァーグに対してメルヴィルが語っている貴重なインタビュー映像です。
翻訳に当たっては、ほとんど英語字幕を参照していますが、例によって、かなり訳出の怪しい部分もありますので、誤りなどありましたらご教示いただければと思います。
Q:ジャン=ピエール・メルヴィルさん、処女作『海の沈黙』以来ずっとあなたは主流の映画業界から離れたところで仕事をされてきましたね。
それは、あなたが映画を撮るためには唯一の方法だったのでしょうか?
M:もちろんです。新参者は常に同じ問題を抱えています。
つい3、4年前までは、新人監督が映画スターと一緒に仕事をすることなんて考えられないことでした。
スターの出演なくしては資金が集まらないし、スターの出ない新人監督の映画に興味を示すプロデューサーなんていませんからね。
ですから、私は独立プロという道を採らざるをえなかったのです。
私がロケ撮影をしたのは予算を低く抑えるためでした…事実そう思っていたのです。
それは私がもっと考慮すべきだった間違いの一つでしたが。
私は『海の沈黙』が低予算でロケ撮影された最初の劇映画だったと思いますね。
1946-47年頃は、それが考えられる唯一の方法だったのです。
他の方法で映画を撮るのは不可能でした。
Q:あなたは優れた映画を撮っただけでなく、それが可能であることを証明しましたね。
当時まだ若すぎて映画を撮ろうとは思っていなかった多くの若者たちにも、あなたはヒントを与えたのです。
あなたの自立した活動が、ヌーヴェル・ヴァーグの若者たちにとって、ある種の“保険”となりました。
彼らは何もないところから突然出現したように見えますが、アメリカ人のように、自分たちの先駆者を見つける必要がありました。
あなたは、革ジャケットにスクーターという彼らの西部における草分け的な先駆者、いわば“インディアン”だったのです。
いかがでしょうか?
M:そうですね。
彼らにとって、私はある種のアリバイでした。
“メルヴィルにできたんだから、俺たちにだってできる”となったのです。
面白いのは、そうやって撮り始められた映画すべてが優れていたわけではなかったということですね。
シャブロル、トリュフォー、ゴダールや他の連中が“おい、身に付けた技術を駆使したり、ジャーナリストや批評家になれば、優れた低予算の映画だって作れるんじゃないか?だって、俺たちはあらゆる新作映画を観ているし、何より映画を知っているからな”と考えるようになったのは『賭博師ボブ』以降のことなのです。
次回に続きます。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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