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メルヴィルの『この手紙を読むときは』(53年)を青山シアターのオンライン上映で何度か観て、映画の内容について疑問に感じた点を検証したいと思います。(オンライン上映のレンタルは7月22日いっぱいまでですが、レンタルしてから72時間視聴できます)

ただ、あくまで字幕を通してストーリーを理解した上での解釈ですので、字幕に表れない部分に関しては理解が及んでいないことをお断りしておきます。
これから述べることは私個人の勘違いである可能性も充分考えられます。
当然ネタばれありですので、まだご覧になっていない方はお読みにならないで下さい

この映画のストーリー自体は、中盤まで特にこれといった分かりにくさはありませんが、後半は妙なシーンが続出します。

テレーズジュリエット・グレコ)は基本的にマックスフィリップ・ルメール)を人間として軽蔑しており、そんな男をあえて妹ドゥニーズイレーヌ・ガルテル)と結婚させるのは、彼が妹を自殺に追い込むほど傷つけた張本人であるからで、その張本人と妹を結婚させることで、妹の心の傷を癒して、妹に幸せになってもらいたいと考えるからでしょう。
事実、マックスと結婚の決まったドゥニーズは幸せそうです。

マックスはあろうことかドゥニーズではなくテレーズに惚れて愛の告白までしますが、妹の幸せを願うテレーズは当然それを拒絶します。
映画後半での浜辺のシーンでマックスはテレーズに明日マルセイユで落ち合ってモロッコへ行こうと必死に口説きますが、やはりテレーズはその場でハッキリと拒絶します。

よくありがちな、あなたのことが好きだけど行けないわという意味ではなく、あなたと私は違う、もともとあなたのような生き方は好かないといった感じで、全く脈ナシといった雰囲気です。
ところが、翌日妹と祖父母が田舎に行くのを見送った後、テレーズは何を思ったかカンヌ駅に向かい、列車に乗るのです。
テレーズはその前に妹に対し三日間だけ修道院に戻ると言っていますが、修道院はカンヌ市内の丘の上にありますから、教会に行くために列車に乗ったのではないことは明白です。

マックスは、女友達のローラに、カンヌ駅でテレーズがマルセイユ駅行きの列車に乗るかどうかを確認させて、電話で知らせるように言ってあるので、駅でテレーズの姿を見つけたローラはマックスにそのことを電話で知らせます(字幕には出ておりませんが、駅員がテレーズの切符を切る時に”マルセイユ(行き)”と言っているように聞こえます)。
当然、観客はその時点で、テレーズがマックスと落ち合うためにマルセイユに向かうのだと解釈します。
それにしても、よりによって妹の婚約者であり、あれほど拒絶していたマックスの元にテレーズがなぜ向かうのか…まず、これが大きな謎です。

もしかしたら、マックスに妹の元に戻ってもらうために説得に行くのか、と一瞬思いましたが、それでは常識的過ぎて映画的には考えられません。
やはり、映画としては、ダメ男の元に走ってしまう清廉な女主人公…ということでなければ成り立たないでしょう。
もちろん、妹に対しても大変な裏切りであり、それまでのテレーズからは考えられない行動ですが、だからこそ映画的であるとも言えるでしょう。
裏切りを扱っているところなど、いかにもメルヴィル的ですし…。

しかし、ここで別の問題があるのです。
ローラから電話を受けたマックスはLes Arcs(寺尾次郎氏の字幕ではアルクという表記)という場所にいます。
一般にレザルクと呼ばれる場所で、フランスとスイス、イタリアの国境近く、カンヌから北に列車で二時間もかかる場所です。(マックスがローラにそう言っています)

マックスはレザルクに行く理由を、以前そこで働いていて、工場に一万フラン貸しがあるので、その金を取りに行くのだという意味のことをローラに話しています(字幕は”借り”ではなく”貸し”)。
マックスの言っていることが本当なのかという疑問が湧きますが、それは良いとして、大きな疑問はテレーズが列車でレザルクに向かっているということです。
結果的に、マックスはレザルク駅で列車に轢かれるわけですが、その轢かれた列車にテレーズが乗っているのです(テレーズの乗っている列車の車窓に”Les Arcs”という文字が見えます)。
マックスと落ち合うためにカンヌ駅からほぼ真西のマルセイユ駅に向かっているはずのテレーズが(映画を観ている観客はそう思っているでしょう)、なぜ北方のレザルクに止まる列車に乗っているのでしょうか

私たち日本人には地理感覚がピンと来ませんが、イメージ的には横浜(カンヌ)から名古屋(マルセイユ)に行くのに新潟とか山形(レザルク)の駅に立ち寄っているような感じなのです。
マックスがレザルク駅から列車に乗って来て二人が合流するという意味なら分からなくはないのですが、マルセイユに向かっているはずのテレーズがわざわざそこまで来るということが大きな謎です。

その前夜の浜辺のシーンで、マックスはテレーズに10時10分にマルセイユに着く列車に乗ってきてくれと言っていますが、それならばレザルクにテレーズが立ち寄る意味は無いはずです。
マルセイユに行ってマックスと落ち合えばよいのですから。(もちろん、テレーズが乗っている列車にマックスが轢かれるという映画的な意味はありますが)
それとも、カンヌからマルセイユに向かう列車は遠回りでレザルクに寄ることになっているのでしょうか。

マックスはこの列車に乗ってマルセイユに向かうつもりだったことは確かなようです。
レザルクの駅でテレーズとモロッコに向かう旨の手紙をビケ宛に書いていることからも、そのことは間違いないと解釈できます。(モロッコに向かうには当然マルセイユから船に乗らなくてはなりません)

テレーズがなぜレザルクに行ったのかという謎は残りますが、結局はそこでマックスと落ち合うためとしか解釈できません。
だとしても、あれほどマックスを軽蔑し拒絶していたテレーズがどうして妹を裏切ってまでマックスの元に行くのか、その辺りの心理的変化が映画の中で必ずしも明確に表現されているわけではないのです。

唯一つ、テレーズが心変わりしたのではないか?と思われるシーンが、妹と祖父母を田舎に見送った後、呆然と椅子に座って肩を押さえながら『ヴォワーズ嬢…』とつぶやくシーンです。(テレーズ、ドゥニーズ姉妹の苗字はヴォワーズ。なお、その前夜に浜辺でテレーズはマックスから石を肩にぶつけられています)

この前夜にドゥニーズに”好きな人は?”と問われたマックスが真顔で(チラッとテレーズの方を見ながら)ヴォワーズ嬢と答えるシーンがあります。
映像もクローズアップで、しかも音楽入り…いかにも意味ありげなカットです。

ドゥニーズがマックスと既に結婚しているならば、ドゥニーズはすでにマドモワゼルではありませんが、この段階ではまだマックスとドゥニーズは結婚していないようです。
なぜなら、テレーズがドゥニーズに、マックスは結婚のための書類を取りにパリに向かったと嘘をつくシーンがあるからです。
つまり、この時点でテレーズ、ドゥニーズ姉妹のどちらもマドモワゼルですが、マックスがテレーズのことを指して言っているのは明らかです。
それにしても、テレーズはなぜここで心変わりしたのでしょうか。
そのあたりにハッキリとした説明がないため、観客は映像を観てテレーズの心の変化の原因を汲み取るしかありません。

私はこのシーンを観て、『モラン神父』において、主人公のバルニーエマニュエル・リヴァ)が家の片付けを黙々とこなした後、一息ついたところでふと神父に対する恋愛感情(肉欲?)を抑えきれなくなるシーンを思い出しました。
というか、二つはそっくりなシーンと言っても良いのではないでしょうか
もちろん、『モラン神父』の方がずっと後の映画ですが(61年)、もともとメルヴィルという監督は、別の映画でも平気で同じ演出を繰り返す監督です。
ただ、『モラン神父』を観ていなかったら、私もテレーズの心変わりに気づかなかったでしょう。
もちろん、『この手紙を読むときは』が53年に封切られた時、『モラン神父』はこの世に存在しない映画ですから、当時の観客にとってはヒントになり得ません。
それくらい分かりにくいシーンであることは確かです。

しかし、実はその理解の鍵となりそうなシーンがのちの列車のシーンにあります
イヴォンヌ・ド・ブレー演じる老婆が、雇っていた男の子が農園の金を盗んで12年もの長い間失踪していることを他の乗客に話しているシーンです。
老婆は、失踪した子は良い子で、人の金を盗むような子じゃなかった、何か魔が差したとしか思えない、理由は分からない、計画的な犯行かしら・・・というような話をしています。
この話を老婆の真横でまっすぐ前を見つめながら無表情で腕を組んで聞いているテレーズの姿が大変印象的です。(この後、老婆の話が佳境に入るかと思いきや、隣の男性客が窓を開けて列車の音で会話が聞こえなくなるという見事な演出があります)

この老婆の話は、一見物語と全く無関係なようですが、実は話に出てくる男の子とはマックスのことなのではないでしょうか?
同時に、まさしく隣に座っているテレーズのような人間のことなのではないでしょうか?

つまり、おそらくはテレーズにも自分の行動がよく分かっていないのだと思います。
列車の中で彼女は全く無表情で、何か心理の変化とでも言うべき表現はほとんど無く、我々観客がそこから何かを読み取ることを拒絶しているかのようです。
ある意味当然で、本人にも自分が何をしているのかよく分かっていないのでしょう。
本人にも分からない行動原理が我々観客に分かるでしょうか?

この後、マックスはテレーズが乗っている列車に轢かれて亡くなります。
マックスが轢かれた後に映像に被さる陽気なアコーディオンの音楽が実に間抜けに聞こえます。
そして画面が別に切り替わると、音楽はプッツリ途絶えます。
悲劇であるにもかかわらず、まるでマックスの死を嘲笑うかのようで、とても悲劇を観ているようには思われません。
まるで監督がふざけているのかと思ってしまうほどです。

そして、次に画面は列車内のテレーズに移り変わると、再び例のアコーディオンの音楽が流れます。
しかし、画面が切り替わると音楽は同じように途絶えます。
これは何を意味しているのでしょうか。
私にはマックスとテレーズが同類であることを意味しているとしか思えません。
映画をよく観れば、映画の前半でテレーズが修道院から自宅へ車で向かう時、修理工のマックスが修理の手を止めて車を見送るシーンでも同じ音楽が流れています。
いわば、二人の出会いのシーンでこの音楽が流れ、別れのシーンで再び流れるわけです。
これは果たして偶然でしょうか?

先に述べたように、レザルクでテレーズとマックスが落ち合うことになっていたのか否かは確信がありません。
しかし、レザルクに着いたテレーズの表情に、少なくともマックスに会う喜びのようなものは読み取れません。
それでも、何かを思いつつ彼女は遮光幕?を開けます。
もしかしたら、そこに来るはずのマックスの姿を求めているのでしょうか?
とにかく、この映画の後半は謎だらけです。

ラストシーンでは、テレーズが再び修道院に戻り、聖母マリアに対して祈りを捧げています。
テレーズはもともとドゥニーズに修道院に三日だけ戻ると伝えていましたので、もしかしたら、その予定通りになっただけなのかもしれませんが、テレーズが再び出家するのはある意味当然でしょう。
おそらくテレーズは二度と還俗しないのではないかと思われます。
マックスに会いに列車に乗ったことをテレーズ自身がどう感じているかは、修道院に戻ったということでほぼ明らかではないでしょうか。

それにしても、この映画は観れば観るほどに深い映画だと思います。
メルヴィルらしさもところどころに散りばめられていますし、決して駄作と切り捨てられる内容ではないと私は確信しました。
この映画を日本語字幕付きで観る機会を与えて下さった青山シアターに感謝したいと思います。
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趣味:
フランス映画、ジャズ
自己紹介:
フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品のファンサイト附属のブログです。
メルヴィルを始め、往年のフランス映画やアメリカのフィルム・ノワールのほか、JAZZ、松田聖子など好きな音楽についても綴っています。
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